天国からのラブレター・その後

小泉八雲の『怪談』に、「破約」というお話があります。

怪談・奇談 (講談社学術文庫)

怪談・奇談 (講談社学術文庫)


※※※※
昔々、あるところに若い侍がおりました。


侍には妻がおりましたが体が弱く、病を得て亡くなってしまいます。
臨終の床で、妻は夫にこう懇願しました。
「どうか私が死んでも、新しい妻をめとったりしないでください」
夫はうなづきました。妻は安心して息を引き取りました。


妻のなきがらは、小さな鈴とともに、庭にある梅の木の木陰に葬られました。


それからしばらくして、侍に再婚の縁談が持ち上がりました。
先妻との約束もあり、渋っていた侍ですが、周囲の熱心なすすめと、お家断絶の危機のため、新しい妻をめとることにしました。


新妻が家に来てから、七日目までは何も起こりませんでした。
ところが八日目の夜、侍が宿直のため家を空けた夜のことです。


丑の刻になると、庭のほうから「ちりーん」と鈴の音が聞こえてきました。
新妻は、得体のしれない恐ろしさに声も出せずにおりました。
「ちりーん」「ちりーん」鈴の音はだんだん近づいてきます。


そして、ついに鈴の音は寝室の前までやってきました。
すると、経かたびらを着て、激しく髪をふり乱した女が、鈴を片手に持って入ってきました。


「あのひとの妻は私だ。この家から出ていけ。理由を話したら八つ裂きにしてくれる」
女の亡霊はこう言い残すと、すっと消えてしまいました。


次の朝、新妻は夫に「実家に帰らせてほしい」と懇願しました。
しかし夫は、「わたしに落ち度があったならともかく、理由も話さずに実家に帰りたいなどといわれても納得がいかない」
と言いました。
新妻は仕方なく、恐る恐る、昨夜のことを話しました。


侍は驚きましたが、亡霊など信じる人ではなかったので、悪い夢を見たのだろうと思いました。
「それなら今夜は護衛をつけてやるから、安心して休みなさい」と言いました。


その夜、新妻の寝室には若く屈強な家来が二人、寝ずの番をしておりました。
新妻は、彼らの明るさにすっかり安心して、眠りにつきました。


丑の刻になると、碁を打っていた家来たちの耳に、「ちりーん」という鈴の音が聞こえました。
新妻はその音に、うなされながら目を覚ましました。
「ちりーん」「ちりーん」鈴の音はだんだん近づいてきます。


そして部屋の前で「ちりーん」と鳴ったと思うと、恐ろしい形相をした女の亡霊が部屋に入ってきました。
新妻は恐ろしさのあまり声も出せず、護衛の家来たちは碁盤の前から動くことができませんでした。


翌朝、夫が妻の寝室を訪れると部屋は血の海で、血だまりの中に首のない新妻の死体が横たわっていました。
家来たちは、碁盤の前に座ったまま、二人とも気を失っておりました。


死体をよく見ると、首は切られたのではなく、恐ろしい力でねじ切られておりました。
血の滴りは点々と、庭のほうまで続いていました。
侍と家来たちがその跡を追ってみると、庭の梅の木の木陰にある先妻の墓で止まっておりました。
侍は、いやな予感がして、家来にその墓を掘り起こさせました。


すると、墓の中には、骨と皮ばかりになった先妻の死体が、片手に小さな鈴を、もう片方の手には新妻の首をつかんで、横たわっておりました。
死体の顔だけは腐りもせず、ものすごい形相のままこちらをにらんでおりました。
※※※※


この話をしてくれた友人に、八雲はこう言います。
「何も知らない新妻のもとに怨霊が出るのはおかしい。約束を破った夫こそ恨まれるべきではないか」
しかし友人はこう言いました。
「それはわれわれ男の考えであって、女の感じ方は違うのだよ」


※※※※



さて。




原発系トンデモ発信人として、東海アマらと並び称されているthotonという人がいるのですが、こんなツイートをして話題になっています。


thoton氏 「本村の心は、再婚相手の新妻にこそあれ、殺害された元妻とその妻との間に生まれた子供にはない」 - Togetter thoton氏 「本村の心は、再婚相手の新妻にこそあれ、殺害された元妻とその妻との間に生まれた子供にはない」 - Togetter
昨日も話題にした、光市の母子殺害事件について、遺族の本村洋氏をひどく誹謗中傷しています。


よく「女の愛は上書き保存、男の愛は名前を付けて保存」なんてことを言いますが、亡くなった人を愛することと、新たに人を愛することは矛盾するものではありません。


ぼくは実をいうと、本村氏にそれほど良い印象を持っているわけではありません。彼が出版した、妻との書簡集『天国からのラブレター』は、露骨な性生活の暴露や知人への陰口など、明らかにすべきではない内容を多分に含んでおり、人格的にやや偏った人物であろうことが容易に想像できます。とはいえ、妻と子を殺された人物が正常な人格を保てるわけもないので、あえて批判を加えることは避けたいと思います。


彼が再婚したことについて、亡くなった妻が、新妻の首をねじ切りたいほど憎んでいるか、それとも広い心で許しているか。それは誰にもわかりません。「女の感じ方はこうだ」などと勝手に代弁されても困ります。亡くなった人の心象を想像したところで誰にも証明はできないことです。必要なのは当事者の納得でしかありません。



小泉八雲は、友人からの話で「女とはそういうものだ」と納得したようですが、彼にも東洋の女に対する「蝶々夫人」幻想があったのではないかと推測されます。
thotonの言ってることはなおさらタチの悪い幻想です。


とはいうものの、この手の幻想は近代になっても残っており、50年ほど前に、亡くなった恋人との書簡集『愛と死をみつめて』で悲恋の主人公として有名になったマコこと河野実氏が、数年後に『愛と死をみつめて』の読者だった女性と文通の末に結婚した(つくづく文通の好きな人だったんだなぁとは思う)ときにも、マスコミに猛バッシングを受けています。

「愛と死をみつめて」その後

「愛と死をみつめて」その後

この手の、「死んだ人に操を立てるべき」という価値観は意外に根強いのかもしれません。



また、犯罪被害者がどう生きるかについては、無責任な第三者がどうこう言うことではありません。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

角田光代先生の『八日目の蝉』のインスパイア元にもなった、日野OL不倫放火殺人事件というものがあります。


http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hino-ol.htm


この事件では、妻子ある男と交際し、堕胎させられた女性が、妻の暴言に逆上して家に放火し、二人の幼児を焼死させています。
このときも、被害者である夫婦の行動に猛烈なバッシングが集まり、加害者には同情の声が寄せられました。


しかしこの夫婦は、これほどの事件に見舞われたにも関わらず離婚はせず、それどころか、失った子を取り戻すかのように、新たに二人の子をもうけています。
(『八日目の蝉』でも、原作では、恵理菜が帰ってきた秋山家には、恵理菜の代わりのような妹の真里菜がいる)



正直いって、この事実を知ったときには思わず「えっ」と声が漏れましたが、被害者が立ち直ろうとしての行動に、第三者が文句をつけるいわれはありません。
ましてや、河野義行氏を引き合いに出して「元妻への想いはない」などと言うに至っては、下衆の極みとしか言いようがありません。


放射脳なんてことばがありますが、まぁ何にせよインチキ野郎は何をやってもインチキ、ってことですね。