人間のクズやお払い

必殺仕置人』第4話「人間のクズやお払い」は、仕置人たちの”殺し”にかける特異な情熱が露わになるエピソードである。

必殺仕置人 VOL.2 [DVD]

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黒沢年男が演じる乱暴者のやくざ、聖天の政五郎は、敵対するやくざを次々に殺して勢力を拡大していた。目撃した子どもまで容赦なく殺す残忍な男だ。
念仏の鉄(山崎努)ら仕置人は、政五郎に殺された男(林隆三)の恋人から仕置の依頼を受けるが、その決行を前に、牢内から江戸の裏社会を支配する大親分である天神の小六(高松英郎)が、政五郎抹殺指令を出す。


それを知った中村主水藤田まこと)は、もう放っておいても政五郎は殺されるのだから仕置の必要はなくなった、と鉄や棺桶の錠(沖雅也)らに報告するが、鉄たちは、それならこっちが先に政五郎を殺らなくては、と色めき立つ。
主水は冷静に、そんなことをしたら小六まで敵に回すことになるとたしなめるが、鉄や錠たちの意思は変わらない。
彼らは政五郎を仕置することへの昏い情熱に突き動かされており、もはや銭金の問題でもなく、自らの身に危険が及ぶこともいとわず、あくまで自分たちの手で政五郎を仕置することにこだわるのである。


冷徹な殺しのプロを描いた前作『必殺仕掛人』との違いを明確に打ち出し、悪人への怒りを原動力にする仕置人たちのスタンスが明らかとなったエピソードだ。


※※※※
光市の母子殺害事件で、犯行当時少年だった被告の上告が棄却され、死刑が確定した。


http://www.asahi.com/national/update/0220/TKY201202200258.html

光市母子殺害の元少年、死刑確定へ 最高裁、上告棄却

 山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審で、最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)は20日、犯行当時18歳1カ月の少年で、殺人と強姦(ごうかん)致死などの罪に問われた大月孝行被告(30)=犯行時は福田姓=の上告を棄却する判決を言い渡した。死刑とした差し戻し後の二審・広島高裁判決が確定する。

 大月被告は最高裁に統計が残る66年以降、犯行時の年齢が最も若い死刑確定者になるとみられる。第一小法廷は「犯行時少年だったことなどを十分考慮しても、死刑はやむを得ない」と言及。判決を踏まえ、少年による凶悪犯罪の裁判では、犯行時の年齢や立ち直りの可能性よりも結果の重大さが重視される流れがさらに強まりそうだ。

 少年法は18歳未満の少年への死刑適用を禁じており、主な争点は18歳になったばかりの少年に適用することの是非だった。当初の一、二審は被告が立ち直る可能性を重視して無期懲役としたが、2006年に最高裁が「少年であることは死刑を回避すべき決定的事情ではない」と述べ、無期懲役判決を破棄。差し戻し後の二審判決は死刑としたため、2度目の最高裁の判断が注目されていた。

 第一小法廷はこの日の判決で「何ら落ち度のない被害者の命を奪った冷酷・残虐で非人間的な犯行。心からの反省もうかがえず、遺族の被害感情も厳しい」と指摘。犯行時の年齢や立ち直りの可能性など、被告にとって有利な事情を踏まえても、「刑事責任はあまりにも重大で、死刑を是認せざるをえない」と述べた。

 裁判官4人中3人の多数意見。弁護士出身の宮川光治裁判官は「犯行時の年齢に比べ、精神的成熟度が相当低かったことがうかがえる以上、改めて検討し直す必要がある」として、審理を高裁に差し戻すべきだとの反対意見を述べた。最高裁が死刑と結論づけた刑事裁判の判決で、かかわった裁判官から反対意見が示されたのは、無人電車が暴走し6人が死亡した「三鷹事件」の大法廷判決(55年)以来とみられる。

 第一小法廷の裁判官5人のうち、検察官出身の横田尤孝(ともゆき)裁判官は広島高検検事長時代に事件に関与したため、審理から外れた。判決には訂正を申し立てられるが、認められる可能性はほとんどない。

 被告は裁判が始まった当初、起訴内容をすべて認めていた。00年の一審・山口地裁、02年の二審・広島高裁はいずれも無期懲役としたが、差し戻し前の上告審で一転して殺意を否認し、傷害致死を主張するようになった。

 しかし、08年の差し戻し後の高裁判決は「虚偽の弁解で死刑を回避できなくなった」と述べていた。

 今回の上告審で弁護側は、犯行状況を再現した独自の鑑定をもとに「殺意はなかったという現在の主張が真実」と訴えた。また、母親を自殺で失った被告の成育歴などを踏まえ、精神的な未熟さを強調して「死刑は重すぎる」と主張していた。

 一方、検察側は「極めて悪質な犯行。遺族の処罰感情は峻烈(しゅんれつ)で、社会的影響も重大。犯行時の年齢や反省の度合い、立ち直りの可能性を考慮しても、死刑を回避すべき事情はない」と反論していた。(山本亮介)

     ◇

 〈おことわり〉 朝日新聞はこれまで、犯行時少年だった大月被告について、少年法の趣旨を尊重し、社会復帰の可能性などに配慮して匿名で報道してきました。最高裁判決で死刑が確定する見通しとなったことを受け、実名での報道に切り替えます。国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだとの判断からです。本社は2004年、事件当時は少年でも、死刑が確定する場合、原則として実名で報道する方針を決めています。

この件は、最高裁が差し戻した時点で死刑はほぼ確実視されていた。問題点もほぼ語りつくされている。死刑制度の是非をここで問うのは問題のすり替えでしかない。死刑が現に存在している以上、その判決が下ることもあるのは当然のことだ。死刑廃止についてはもっと大きな議論をしなければならない。ちなみにぼくは、グロテスク趣味の面から死刑制度を支持しているが(死刑こそ、この社会で最もグロテスクなものである)、世界的な流れが死刑廃止に傾いており、人権擁護の観点から死刑廃止の風潮が高まるのは、個人的趣味とは別に歓迎すべきと考えている。だがここでは問題にしない。


こういった凶悪犯罪が起き、死刑判決が下ると狂喜する人たちが多くいる。決まって口にするのは「被害者の人権」だ。だが人権はバーターにできるものではない。加害者の人権を奪うことが被害者の人権を救済することにはならない。
「こんな悪人に人権はいらない」と言う人間は相変わらず多い。だが人権というのはどんな悪人でも保障されることに意義があるのだ。誰かにあって誰かにないのであれば、それは一つの特権に堕してしまう。すべての人が生まれながらに持っており、何があっても失われてはならないところに人権の本質がある。
今回の件では、被害者遺族である本村洋氏が前面に立ち、厳罰を求めるとともに被害者救済の法整備を訴えた。大切なのは、これが別々の主張であることだ。被告への厳罰が被害者救済では決してない。
遺族ががんばったおかげで被告が死刑になった、なんてことはあってはならない。それでは、身寄りのない人間を殺すのは家族のいる人間を殺すより罪が軽いことになってしまう。法の下の平等を無視することだ。


相変わらず、凶悪犯罪が起こるたびに「死刑にしろ!」と騒ぐ人は多い。今回の死刑確定でも、「よかった」などと言う人間が少なからずいる。「自分が殺してやりたい」などという人も少なくない。でも死刑になったところで被害者は帰ってこない。無期懲役でも帰ってこない。無罪でも帰ってこない。当たり前のことだ。刑罰というのはそういうものではない。



死刑は確定したが、いつ執行されるかわからない。だが執行されたとき、きっと喜ぶ人が多く出てくるだろう。正義が達成されたと勘違いして。実際のところは、ぼくのようにグロテスク趣味を満足させたに過ぎないのに。
せめて、死刑はどこかの知らない誰かが自分とは無関係にやってくれるもの、とは思わないようにしたい。裁判官も刑務官も公に奉仕するものだ。公とはわれわれ一人ひとりが構成する社会そのものだ。少なくとも建前上はそうだ。つまり、最終的にはわれわれが殺しているのだ。



自分が社会の正義を代表しているかのように「死刑でよかった」なんていうのはあまりに考えが足りない発言だ。自分もいっしょに殺すのだと思えば、軽々しく喜ぶことはできないはずだ。そもそも、社会の代表ヅラをするのであれば、自分たちの社会が、またひとり死刑に値するほどの悪人を生み出してしまった、そのことを残念に思わなければならないはずだ。


「殺してやりたい」などと、言うのは簡単なことだ。だが本当にそこまで思っているのであれば、死刑を喜ぶよりむしろ残念にとらえなければ。「死刑になる前におれが殺さなければ!」と思うぐらいの覚悟もなしに、死刑判決を喜ぶのは無責任だ。
仕置人たちは、放っておいても明日の朝になれば殺される政五郎を、自分の危険も顧みずに仕置にかけるのだ。自分たちの手が汚れないことをわかっていて、どこかの誰かがやってくれると喜ぶのは卑怯だ。初期の必殺シリーズにおける中村主水は、悪への怒りよりも保身を優先する卑怯者として描かれていたのだ。