ヱヴァナナンゲリヲン新居酒屋版:序・破・Q

今日は64回目の終戦記念日で、例によって靖国神社に閣僚が参拝するのしないのといろいろあったみたいではありますが。

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はてな村はそんな世間とは関係なく、よしもとばななのエッセイをめぐってああだこうだと盛り上がっています。


発端はこちら。
よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」 - 活字中毒R。
よしもとばななが、居酒屋にヨーロッパみやげのデザートワインを持ち込もうとして店長から杓子定規な対応をされた、というお話を取り上げて、お店とお客という関係性についてあれこれと考察するというエントリ。


ここで取り上げられたエッセイについて、「店長の対応が悪い」「よしもとは傲慢だ」と談論風発、800以上のブックマークがついて、その多くが「ばななは不快」という方に傾いています。
はてなブックマーク - よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」 - 活字中毒R。


んで、このエントリは多くの派生エントリを生み、ダンコーガイをはじめ(オレはこの人もはてな村の人物みたいなものだと思っている)はてな村のお歴々が、それぞれにいろんな論を展開しています。


404 Blog Not Found:居酒屋は何を売っているのか

(ばなな批判している人たちに対して)
居酒屋の売りって、「居」だろ?「居ること」だろ?「客としてもてなされること」だろ?

空気の読み疲れから、開放されることだろ?

なんで、客が店の空気読まなきゃいけないの?

まだ他の客にからんで迷惑かけたってならわかる。よしもと様ご一行しか客はいなかったんだよね?

客の空気を読むのが、店の仕事じゃないの?

その意味で「きちんと仕事」した店員がとがめられて、「空気嫁」って説教している店長が可笑しいのに、「でもその店長も雇われに過ぎないんだし」ってどこまで店の空気読んでるんだよ、お前ら。


お客様を見るか、利益を見るか - (旧姓)タケルンバ卿日記

基本的には店長は店舗として利益を出す職務。それが店の評判であれ、リアルな売り上げ金額であれ、何らかの結果を出すことが求められる。

その場合の店長のあり方として、「お客様にNoを言わない」を徹底するかどうか、という企業文化の問題がどうしても出てくるんです。会社としての姿勢の問題が絡んでくるんです。利益を出すために「No」が認められるか否か。この差は非常に大きい。


居酒屋の店長にサービス精神は必須なのか - よそ行きの妄想

ばななだかきゅうりだかが勘違いしているのは、すべての店長は高級店並のサービスの提供を目指していて、店の売上拡大に使命感を持って取り組んでいると勝手に思い込んでるところだ。ただ生活のために保守的に働いたっていいんだよ別に。仕事に夢や希望や野心を持つことだけが「よいこと」ではないわけ。

こういう他人の目的意識に勝手に介入してくるやり方というか、一方的な価値観だけで他人を評価するやり方は典型的な「老害」のものである。


http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20090814/p1

店長も不愉快だし、ばななも不愉快だし、優等生な物言いでばなな非難するブックマーカーも不愉快だ。なんというか救いがない。


これら関連エントリへのブクマを合計すると、ゆうに1500を超えることになります。当ブログが開設より4年半かけて集めたブクマより多いほどの反響が、元になったエントリから生まれているわけですね。


で、その1500人の中に、ネタになったエッセイを実際に読んだ人は何人いるの?


活字中毒R。」で引用されていたのは、エッセイ集『人生の旅をゆく』に収録されている「すいか」という一篇の、さらに一部でしかないんですよ。

人生の旅をゆく (幻冬舎文庫)

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というわけで買ってきたですよ、よしもとばななのエッセイ集。ふだん本屋に行って著者「よ」の棚の前に立っても、横溝正史とか横田順彌かせいぜい横山秀夫ぐらいしか目に入れなかったぼくですが、今日はエイと気合を入れて、生まれて初めてよしもとばななの本を手に取ったですよ。


このエッセイはまず、

高知には夕陽の印象がいつでも強い。

という書き出しではじまり、高知の人々は夕方になるとふっと顔がゆるみ、仕事している人もちょっとだけ素の顔に戻って、融通をきかせるようになる、ということを書いています。その融通は、他人の善を信じた上での融通であり、それが東京に足りないものだという。


くだんの「活字中毒R。」で引用されているのはその後からで、東京では融通が利かない、融通を利かせることが許されない労働環境が強いられていることの実例として挙げられているのが、引用部分なんですね。


その後には、こんなエピソードが続いています。

 私は家で仕事をしているので、よくセールスの電話がかかってくる。
 たいていは普通に「今必要ないので」と断ってしまうんだけれど、中にはほんとうに「もともと絶対に断られるとわかっているけれど、この時間電話をかけ続けることが仕事なのだ。機械になってやっていこう」という感じの人がいる。
 さっきもかかってきた。
「こちらは、台所の設備を徹底的に分解しておそうじする××という会社のものですが」
 と機械みたいな声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「ここは借家なので、大家さんが決めることになりますので、とりあえず必要ないです」
 と私が言うと、
「はい、承知いたしました」
 と全く感情のない声が返ってきて電話が切れた。
 この人がかけ続ける電話の数、この人が断られる数、この人がお客さんを取れずに怒られる数、会社がこの人に払っている時給、この人を雇っている会社の不安定な状況……うまくは言えないが、いいむだではないむだがたくさんあるような気がしてならない。人の気持ちもたくさんむだになっているような。それが世間というものだし大きな社会というものなのかもしれないとは思う。全ての職業には意味があるし、必要だからできたのだろうし、必要がなくなったらまたなくなっていくのだろう。しかし、この人は、人としてもうこんなに死んだような声を出す仕事をずっとしていて、私生活でちゃんと夕方ゆるめるのだろうか? 心から笑えるのだろうか?
 人ごとだから、心配はしない。ただ、そんな人をたくさん抱えているこの社会について、ふっと淋しいような荒れたような気持ちにはどうしてもなってしまうのだった。

どうでしょう。こちらのエピソードなら、はてな村のお歴々も、いくらかは共感できるんじゃないでしょか?


そんで、エッセイはまた高知の話に戻り、無人市場で買ったすいかを持って宿に泊まったが、ホテルの人たちが親切に対応してくれたというエピソードを引いて、

 なんだか懐かしいなあ、こういう感じ。
 みんなが楽しいことやおいしいことや人が幸せで喜ぶようなことに向かっていて、それが当然だと思っているかんじだなあ、そう思った。
 いつか東京もその明るさを取り戻すといい、それはとてもむつかしいし、過去が全部すばらしいわけではない。それでも切にそう思った。

と、しめられています。どうです? これだとだいぶ印象ちがうでしょ?


エッセイの書き方というものは、「冒頭でネタを振る」→「中盤で別エピソードを展開する」→「終盤でまた冒頭のネタに戻ってしめる」という、序破急を踏まえた構成が常道とされています。このよしもとばなな「すいか」も、そうなっていますね。


くだんのエントリは「中盤の別エピソード」だけを掬い取っているので、それだけを読んでああだこうだと言うのはどうかと思いますね。


ヱヴァンゲリヲンなら、序・破・Qの「破」だけ観ても面白いですけど(だって「序」の23倍から31倍ぐらいは面白かったし、「Q」があれ以上に面白くなるとはちょっと思えない)、あれはそれぞれ独立した作品になっているからそれでもいいわけですからねぇ。

Cut (カット) 2009年 08月号 [雑誌]

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