From me to me
昨日は、毎月恒例の小説家・ライター講座を受けてまいりました。
今月の講師は、小学館の文芸誌「きらら」の稲垣伸寿編集長。
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(↑こっちの方です)
今回は友人の煙羅煙羅くんもいっしょで、文章の基本的なルールについて確認できてよかった、と言ってました。
改行したら一字下げるとか、「?や「!」の後は一字空けるとか、カギカッコで会話文を挿入するときは末尾に句点をつけない(「○○だ。」とは書かず「○○だ」と書く)、とか、こういうのは小学校の国語で習うことですが、大人になってからはあまりうるさく言われなくなりますからね。
たとえば、今回の教材として採用されたテキストに、ほとんど読点をひとつ打つごとに改行していて、文章が二行以上にわたることがなくなっているものがあったんです。
ケータイ小説みたいな書き方だなーと思って、どうしてこういう書き方をしたか質問してみたのですが、その文章を書いた人は放送局でニュース原稿なんかを書いている方で、放送業界ではそういう書き方をして音読しやすくする習慣があるそうなんですね。
文章を書くという作業自体は同じでも、そのルールはその場によって違ってくるんですねぇ。
これはブログにもいえることで、ぼくの文章は改行するごとに二行ぐらい空けてるんですが、小説でこんな書き方をしてる人はいませんね。
また、小説では語り手の存在が重要で、文章が誰の視点で書かれているのか、誰に向かって語りかけているのか、それらによって、書けることや書けないことは変わってきますね。
そして、小説は基本的に語り手となる人物の回想として書かれるものなので、語り手の人物は、この小説の最後までは死なないのだな、という推測を、読者は無意識にします。
たとえば、A・B・Cという三人が出てくる小説があり、Aの視点で書かれているとします。
この場合、Aの心理描写はできますが、Bの心のうちを描くことはできませんね。
もしするのであれば、その小説で描かれている事件が終わったあとで、Bから聞いたのでなくてはなりません。
そして、視点がAのまま「Cはこのときこう思った」と書いたあとで、CがAと話すことなくCが死んでしまったとしましょう。
これでは、なぜCの心がAにわかったのか、という矛盾が発生します。
ぼくの大好きな漫画で、田中ユタカの『愛人』というのがあるんですけど。
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ですが、そのうち語り手の人物がレーザー兵器の攻撃を受け、「その瞬間わたしの肉体が消滅した」と言い出すのでびっくりしてしまいます。その報告書はいつ誰が書いたんだよ!
その後、その語り手はこの世とあの世のはざまで神秘体験をして生還(肉体が消滅したというのは錯覚だった)するのですが、報告書形式だったため「この人は実は死なない」ということが読者には予想できてしまいます。
視点の切り替えには注意しなければいけませんね。
ブログの場合は、語り手はそのまま書き手本人であることがほとんどなので(キャラ作ってはいても)、語り手の視点より受け手のことを意識しないといけません。
誰に向けて書いているのか、というのはブロガーにとって重要な問題です。
ぼくの場合、読者としてもっとも意識しているのは自分自身なんですね。
あとでヒマなときに読み返して、「うむっ…いつ読んでも自分で書いたエントリは最高だ!」と炎尾燃みたいなことを言うために、このブログは書かれています。
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「わかる人だけわかればいいや」というノリで書いてると、ウチみたいに、書いてる本人にしか理解できない内容になっちゃうので気をつけましょう。