ハワイの狐

「カラテ地獄変」にかまけていたおかげで、触れられずにいたのですが世は空前の越中詩郎ブームですね。

見逃した方はこちらでどうぞ。







「アメトーク」の企画では「ガンダム芸人」が新しいカテゴリとなるほどのヒットで、キーワード化もされているのですが今度は「ヒップアタック」がキーワード化されるという異常事態です。


でも、このプレゼンが一番おもしろかったような気がするなぁ。


実際の試合は見たことない、という方はこちらでどうぞ。

会場でのケツ人気はもう抜群で、90年代の新日会場では

この三つが三種の神器としてファンの絶大な支持を受けており、テレビでしか見たことのない新参ファンを動揺させていたものです。



そんな越中ですが、彼はもともと全日本プロレス出身で、新日に移籍した当初はファイトスタイルの違いに戸惑い、新日ファン特有の全日蔑視もあって人気はいまいち、かなり苦労していました。


そんな越中が脚光を浴びたのが、第一次UWFの崩壊によって新日にUターンしてきた高田延彦(当時の表記は伸彦)との抗争でした。

といっても、当初はシビアな高田のファイトを引き立たせるための蹴られ役に過ぎず、連日高田のわがままなヒザ小僧で蹴りまくられてはブッ倒されていたものです。

しかし、ファイトに慣れるにしたがって徐々にそのド根性スタイルの持ち味を発揮。


高田vs越中の抗争は「ジュニア名勝負数え歌」と呼ばれ、当時新設されたばかりのIWGPジュニアヘビー級ベルトをめぐって数々の好試合を生み出しました。


高田ファンの、「BOYS BE…」原作者として知られるイタバシマサヒロ氏が出したこの本でも、越中に一章を割いていたほど、彼らの縁は深いものがありました。

ここで描かれている、越中の移籍にまつわるエピソードがもう涙なしには読めないほどイイ話です。


同期入門の三沢光晴とともに、メキシコに修行に行った越中

メキシコの風土や食べ物も、ルチャ・リブレのファイトスタイルも合わず、体調も優れずツライ毎日です。


しかも、三沢は二代目タイガーマスク変身のためにすぐ日本に呼び戻され、越中一人だけ見捨てられてしまいます。



ジャイアント馬場は部下に手厚い人だった、という勘違いはわりと広く流布していますが実際には冷酷なギロチン魔として多くの部下の首を切っているんですね。

ターザン後藤なんかも、アメリカに遠征してそれっきりでしたし。



そして、「もうプロレス辞めよう」と思うまでにクサっていた越中でしたが、そこに当時新日の副社長だった坂口征二から国際電話が入ります。

当時の新日は、長州力をはじめとするジャパン・プロ勢の大量脱退によってレスラー陣が手薄になっており、そこで越中に目を付けたのですね。


馬場への義理もあってすぐには移籍に踏み切れない越中を、坂口は「とりあえずハワイまで遊びに来てよ」と誘います。


とにかくメキシコから離れたかった越中は、新日の手配した飛行機でハワイへ。

空港には、坂口と猪木が直々に出迎えに来ていました。


笑顔で「滞在は何日の予定ですか?」と訊く猪木。

「一週間です」と答える越中に、「そうですか、じゃぁ2週間のんびりして行ってください」と笑顔で返します。

この人はこうやって人心を掌握しちゃうんだなぁ。


この一撃で新日への移籍を決意した越中は、すぐにハワイの日本料理店に飛び込みます。


注文したのはきつねそば。どうしてもこれが食べたかった。


ドンブリがテーブルに置かれるのももどかしく、一気に食べました。汁も一滴残らず飲み干しました。

よっぽどドンブリを舐めようかと思ったんだけど、なんとか我慢したよ。


本当にうまかった。

越中談)


そして、夢のようなリゾートを終えてメキシコへ戻った越中のもとへ、新日から東京行きのJAL航空券が送られてきます。


ふつう、海外出張しているビジネスマンなんかはこれを換金して格安チケットに買い替え、差額をフトコロに入れるというのが一般的ですが越中はそれをしませんでした。


日本の飛行機で、オレを見捨てた日本に帰ってやるって。


空港の窓から、日航の鶴のマーク(当時)が見えたとき、越中の両目からは涙が流れ落ちたそうです。



…わたしは今でも、きつねそばを食べるときは若き越中の苦労に思いを馳せ、なんとも言えない気持ちになります。

深いんですよ、越中は。