アリ・ザ・グレイテスト

新日本プロレスからWWEに移籍し、ファーム団体NXTでストロングスタイル旋風を巻き起こしている中邑真輔。その必殺技「ボマイェ」は、渡米後は「キンシャサ・ニー・ストライク」と改称されました。

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中邑真輔アントニオ猪木の薫陶を受け「キング・オブ・ストロングスタイル」を標榜しており、「ボマイェ」のネーミングも、猪木のテーマ曲「炎のファイター(猪木・ボンバイエ)」にちなんだものです。


で、この入場テーマは、もともとモハメド・アリの伝記映画で使われた音楽を、1976年にアリと対戦した猪木が、その友情の証しとして譲り受けたものです。まぁ実際にはたぶん猪木と新間寿がゴネてブン取ったか、あるいは勝手に使い始めてから無理矢理事後承諾させたんじゃないかという気がしてならないけど。


そもそも「ボマイェ(Boma Ye)」とはリンガラ語で「Kill Him」(やつを殺せ!)を意味する言葉で、1974年にザイール(当時)の主都キンシャサにおいて、モハメド・アリが圧倒的不利の下馬評を覆してジョージ・フォアマンをノックアウトした、世に言う「キンシャサの奇跡」において、アリ陣営が用意したキャッチフレーズでした。「ボマイェ」が「キンシャサ」に変ったという事実は、中邑真輔アントニオ猪木モハメド・アリという戦う男たちの系譜を表しているのです。


モハメド・アリは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と自身のファイトスタイルを表現していましたが、それが可能だったのは20代前半の全盛期、ソニー・リストンをノックアウトして王座についたころの話でした。アリはベトナム戦争に反対し徴兵を拒否したため王座を剥奪され、その体力の黄金期に3年以上にわたるブランクを余儀なくされます。復帰したアリにはすでに往年のフットワークはなく、キンシャサでの戦いでも、アリはフットワークを使わず、ロープにもたれながら防御に徹し、フォアマンの打ち疲れを待ってカウンターを打ち込む「ロープ・ア・ドープ」戦法を取りました。アリは以降の防衛戦でもこの戦法を多用し、衰えたフットワークをカバーしましたが、ブロックの上からとはいえヘビー級の強打を浴び続けるこのスタイルがアリの肉体にダメージを蓄積し、引退後にパーキンソン病を患う原因になったといわれています。



アリの戦いは、リング上でライバルとファイトするのみならず、黒人を差別するアメリカ社会との戦いでもありました。オリンピックで金メダルを取りながらもレストランで入店を断られ、メダルを川に投げ捨てたエピソードは有名ですが、出生名「カシアス・クレイ」を「奴隷の名前」として忌み嫌い(これは当時のブラック・ムスリムによくみられた思想的傾向である)、イスラム名「モハメド・アリ」を名乗ったのもその戦いの一環です。アリがアーニー・テレルと世界ヘビー級王座統一戦を行ったときも、テレルはアリをわざと旧名「カシアス・クレイ」と呼んで挑発しましたが、激怒したアリはテレルを一方的に打ちまくりながらもなかなか決定打を入れようとはせず「俺の名を言ってみろ」と叫び続けました。

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(ジャギ兄さんの元ネタになった可能性が微レ存)



アリが日本で行った最も有名な試合である、アントニオ猪木戦については柳澤健の『1976年のアントニオ猪木』にくわしいので、そちらを参照。

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

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現役時代のファイト、人種差別への抵抗、そしてパーキンソン病との戦い。アリの人生は最後まで戦いの連続でありました。


「史上最強のボクサーは誰か」と問われたら、ボクシングファンが百人いれば百通りの答えが返ってくるでしょう。ですが、「史上最も偉大なチャンプは誰か」と問われたら、誰もが「モハメド・アリ」と答えるでしょう。それがモハメド・アリという人生でありました。


元世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリ氏 死去 | NHKニュース 元世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリ氏 死去 | NHKニュース