焼きそば讃歌(深夜ポエム)

カップ焼きそばというのは非常に嗜好性の強い食べ物である。オレのカップ焼きそばセレクトは、だいたいスーパーカップ大盛りいか焼きそば→一平ちゃん夜店の焼きそば大盛り→日清焼きそばUFO大盛り→ペヤング超大盛りというローテーションで(東北人だけどマルちゃん焼きそばバゴォーンはそこまででもない。大盛りじゃないし)、これに各種の季節限定商品が絡んでくるのが常なんだが、ペヤングが虫混入により商品自主回収→販売自粛になってしまったので、オレのQOLが急激にダウンするのは避けられない状況である。
ごつ盛り ソース焼そば 171g×12個

ごつ盛り ソース焼そば 171g×12個

救世主として、マルちゃんごつ盛りソース焼きそばに頼るしかない。この商品は、「UFO」「ペヤング」「一平ちゃん」の御三家ほど熱狂的な支持を受けているわけではなく、ディスカウントストアでは一個100円以下の安売りをされていることも多いのだが、こいつが棚にあるときの安心感は格別だ。これさえあればオレは生きていける、そんな気がする。


カップ焼きそばのお湯を捨てる、という行為は人生に似ている。誰しも、何かの力を借りることなくして本当の自分になることはできない。そして、それを捨てたときにこそ本当の成長ができるというものなんである。
排水管が傷まないように、水道の水を流しながらカップのお湯を捨てるとき、人生に降り積もった各種のしがらみや、人を傷つけたり人に傷つけられたりした記憶から、オレは束の間だけ自由になる。お湯を切った麺にソースを絡めるとき、そこには食欲以外のすべてを捨て去った、むき出しの自分だけが残る。
食べ物はゆっくり味わえ、とガキのころから教えられたが、実践できたことはほとんどない。口が閉まらないようなでかい飴玉だって、5分ともたせたことはないオレだ。カップ焼きそばならなおさらである。ソースの味は口に入れるための手助けにすぎず、とにかく口の中がいっぱいになる感触と、アゴに感じる心地よい疲労感、もっさりした麺を飲み込むときのかすかな窒息感、そして中身のないものを食ってしまったという徒労感こそが、カップ焼きそばの味わいであり、オレの人生もこういうものだったかもしれない。
栄養のあるものを食え、手間をかけたものを食え、いろどりのあるものを食え、明日につながるものを食え。そういった正論は、世界中のどこへ行ってもついて回るものだし、オレだってそういう価値観をまったく理解していないわけではない。あなたたちの価値観がわたしたちを苦しめるのです。そんな紋切型の台詞を言う資格を持てるほど、オレはマイノリティではない。ただカップ焼きそばがうまい、と感じる気持ちがほんの少しだけ豊かなだけなのだ。
カップに注いだお湯が流されていくとき、自分の中からも流れていったいろんなものが、焼きそばを胃袋におさめるうちに、また戻ってくる。むき出しの自分は本当の自分かもしれないが、ちりが積もり積もってできた自分が嘘で偽者かといったら、それもまた違う気がする。変っていくオレと変わらないオレのどちらが本当のオレなのか、なんて考えるのも焼きそばがうまいからだ。塩分とカロリーと胸焼けの予感を取り込み、それらを胸いっぱいの満足感と天秤に掛けながら、オレは明日もまた生きていていいのかもしれない、という思いを確かめるのである。ゴキブリ? 知らねえよ。