死に至る病

<前略>
 つまりモテるということが、今や男女関係の至上の物差しになってしまった。これは困ったことだよ。若い時にこういう物の考え方に慣れてしまうことは実に危い。一生、人を愛することのできない人間ができあがってしまう。
 そんなことはない、ときみはいうだろう。今に愛する人が現れたら、おれだって遊ばなくなるんじゃないの、と。
 そうはいかないのだね、これが。モテるとかモテないとかいう物の考え方は、きみが考えてるよりも、ずっとずっと深くきみの心の中に根をおろしてしまうんだよ。
 まず第一に、きみは自分が考えてるよりも、ずっと受身の人間だ。嘘だと思うなら、自分の部屋に、そうさね、三日間も一人で閉じこもってごらんな。自分がどのくらい人に愛されたいと思っているかわかるだろうから。
 つまり、きみはいつか救世主が現れて自分を幸せにしてくれるだろうと思ってる。昔、ロレンスという人がいってるね、「男の心の中にある『自分は娶られたい』というこの奇怪な欲望」と。素敵なナイトを待ってる女の子に、きみは似てはしないか。
 幸せというものが、自分で摑まえるものでなくて、人が与えてくれるものである、ときみは考えている。よろしいか。幸せが破れた場合、きみの心は当然、次のように働く。
「あいつの与え方が悪かったのだ」
「人を幸せにする能力がない女なんだ、あいつは」
 能力がないのは、いったいどちらであるのか。
 今一つ注意すべきは、モテるという精神構造には「現在」というものがないんだな。
 はるか未来のかなたに、光り輝く理想の女性像みたいなものがあって、このひとが今にきみを幸せにしてくれるらしい、それまではどうせ仮の生活だ、数でこなそう、というのか、きみの視線は、デイトの場所へ向かう電車の中でも、どうもきょろきょろと落ち着かぬようだなあ。
 そうして、女の子と逢ってるさ中にも、もう次の女の子に電話することなんか考えてる。
 これはよくない傾向だよ。幸せというものは過ぎ去った時に初めてそれと知れる。今に、今に、と思っているうちに一生終わっちゃって、きみはすべての幸せを取り逃がしちゃってることに気がつくのだよ。(私は切実な体験を語ってるんだからね。マジメに聞いてもらいたいね、マジメに)
 人間、いったんこういう現在を失った時間体系の中に生き始めたら、これは死に至る病というものである。
 常に、空しい期待と、うそ寒い悔恨の中に生きるということになってしまう。
 真実、愛すべき少女がきみにかしずいていてくれても、なにやら必死にありもしない未来の幸福に向かってもがいているきみの眼には見えもすまい。
「うるさいねえ、そうぺとぺとおれにつきまとうなよ。たまには浮気の一つもしてらっしゃい、ぐらいいったらどうなんだよ、全く、いいかげんあたまきちゃうよ」
 こういう被害者意識に終生つきまとわれることになるのだ。
 だから、若者よ。間違ってもプレイ・ボーイなんぞに憧れるな。フロムという人がいっている。あれは、男として自信のないやつが、女を数でこなすことによって、自分が男であるということを、自分に証明しようとしているにすぎぬのだ、と。

はてなではよく「モテ」だ「非モテ」だというのが話題になります。最近は増田が主戦場になって、「思春期にモテなかった苦しみ」とか「自分ももっと恋愛したい」とかループを繰り返しているようですが、そういう人に向けたお説教としか読めない、この上に挙げた文章。


いつ書かれたものかというと、今から42年も前の昭和43年に出た、伊丹十三の『女たちよ!』に収録されているエッセイなんですね。

女たちよ! (新潮文庫)

女たちよ! (新潮文庫)

この分野は、40年以上もずっとループを繰り返しているもんなんですねぇ。