ある馬鹿の一生

加藤和彦が自殺したとか、ロス・プリモス森聖二が亡くなったとか、有名芸能人の訃報が相次ぎましたが、その影でひっそりとこんな方も亡くなっています。


http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20091019-OHT1T00047.htm

剛竜馬さん急死…昭和の“プロレスバカ”53歳早すぎる

 “プロレスバカ”の異名をとり、新日本プロレスなどで活躍したプロレスラーの剛竜馬(本名・八木宏)さんが18日、神奈川県内の病院で死去したことが分かった。53歳だった。関係者によると死因は敗血症。先週、体調を崩して病院に運ばれていた。親族が駆けつけた際、自宅玄関は施錠されていたため、2階の窓から室内に入り、剛さんを搬送したという。

 剛さんは70年、国際プロレス入り。エース候補と期待されていたが、78年にフリー宣言。藤波辰巳さんが最強王者として君臨する新日本ジュニア戦線で、藤波さんのライバルとして活躍した。その後、「剛軍団」を旗揚げ。インディーズ団体を渡り歩いた。

 80年代には俳優としても活躍。テレビ朝日系ドラマ「警視庁殺人課」に、菅原文太とともに刑事役として出演したこともあった。

 2002年に引退。その翌年の1月、JR新宿駅近くで、ひったくり事件を起こしたとされ、逮捕された。さらに、ホモビデオ「極太親父」出演歴が一部で報じられるなど、リング外での話題が続いた。

 その後、レスラーとしてイレギュラーに復帰したこともあったが、完全復活を目指し、アニマル浜口さんに相談を持ちかけていたという。最近は六本木などの飲食店で住み込みで働いていた。最後の試合は9月3日、新木場で行われた大会のタッグマッチだった。関係者によると、衰えは隠せなかったという。

 剛さんは酒好きで、体調を崩してからも周囲の制止に耳を貸さず飲んでいた。「一緒に映画を見に行った時も、上演中に5〜6回ビールを買いに行くのを見て心配していた」(レスラー仲間)。

 剛さんが死亡する前日の17日、親しいレスラーら友人の元に、本人から何度か着信があった。しかし、疎遠になっていたなどの理由で、電話に出なかった人がほとんどだったという。死を覚悟した剛さんは最後に、仲間たちの声を聞こうとしたと思われる。

 通夜は18日に厚木市内で行われた。告別式は19日、同所で行われる。

この記事見出しには問題がありますね。剛が”プロレスバカ”と呼ばれるようになったのは1994年ごろのことで、昭和時代にはそんな異名はありませんでした。


デビューした国際プロレスが潰れ、新日本プロレスからUWFに飛ばされ、もぐり込んだ全日本プロレスをクビになり、日本初のインディーとして旗揚げしたパイオニア戦志も潰れ、自ら設立したオリエンタルプロレスを追い出され、それでも「剛軍団」として細々と活動を続けた剛。週刊ゴングのインタビューで「どうしてそこまでプロレスにすがりつくのか」と聞かれ、「オレにはプロレスしかないから。プロレスなしでは生きていけない、プロレス馬鹿ですよ」と答えたのでした。


この発言は、全国のプロレスファンの嵐のような共感を呼び、「ゴング」編集部には剛を激励するファンの手紙が殺到したといいます。手ごたえを感じた剛は後楽園ホールでの興行に踏み切り、インチキ臭い悪役(KYワカマツ率いる「宇宙パワー軍団」)を相手に垢抜けない泥臭いファイトを見せたのですが、この試合が奇跡のような盛り上がりを見せ、「プロレス馬鹿」剛はプチブレイクを果たしたのでありました。


剛が登場すると、場内は「馬鹿コール」で満たされました。満場の客が一人の男に向かって「バーカ、バーカ」と叫ぶというのは異常な事態です。


「バカ」が代名詞だった人物としては、町山智浩さんが宝島の編集者だったころにみうらじゅん画伯から「バカ町山」と呼ばれていたことや、伊藤剛さんが若い頃に岡田斗司夫さんらから「伊藤(バカ)くん」と呼ばれていたことなどが有名ですが、町山さんはともかく、伊藤さんはのちに名誉毀損で岡田さんや師匠格だった唐沢俊一さんを訴えるまでになりました。人を公に「バカ」と呼ぶのはそれほどのことですが、剛はひたすら、知り合いでもない観客たちから「バカ」と呼ばれ続けました。


「バカって言うやつがバカだ」とはよくいいますが、剛はマイクアピールをする際、ファンに向かって「見るほうのプロレスバカの皆さん!」と呼びかけるのが恒例でした。見るほうもバカだしやるほうもバカだ。プロレスというものは、とくにインディーは、90年代なかばにはすでにそういうものになっていたのです。そこにあったのは「でも、やるんだよ!」の精神にほかなりませんでした。


ぼくも一度、プチブレイクしていたころの剛竜馬の試合を見たことがあります。


天龍源一郎のWARが仙台市体育館で試合をやったことがあり、ちょうど新日本プロレスとの抗争アングルが盛り上がっていたこともあって超満員だったのですが、この興行にゲスト参戦した剛は、休憩前の第三試合ぐらいに登場しました。


満場の馬鹿コールを受けて登場した剛は、いきなりマイクを握るや「見るほうのプロレスバカの皆さん! 本日はご来場まことにありがとうございます!」と発言し、「いやいやそれアンタのいう台詞じゃねえだろ」と満場のファンを呆れさせたのですが、まぁバカなんだから仕方ないというファンの温かい(?)視線に包まれながら、拳を突き上げて「ショアッ!」と叫ぶお決まりのアクションや、当たってから飛ぶ独特のフライング・ネックブリーカー・ドロップなど、おなじみのムーヴで場内のムードを和やかに変えていったものでした。


とはいえ、リング上のファイトやマスコミでのインタビューで剛がファンに見せていた面と、関係者に見せていた面ではだいぶ差があったようで、金銭面のルーズさや対人関係の悪化によって剛の活動は尻すぼみとなり、あっという間に忘れ去られていきます。


2000年に(記事では2002年になっている)鶴見五郎の主催で引退試合を組まれましたが、このときはギャラで揉めて本人が出場を拒否するという前代未聞の引退セレモニーとなりました。まぁこれも、周囲との不和によって強制的に引退に追い込まれたんでしょうね。


かつて藤波辰巳とWWWWFジュニアヘビー級タイトルマッチを戦い、名勝負と讃えられたことは剛の人生における宝だったのでしょう。剛はプチブレイクしていたころ、しきりに「藤波と戦いたい」と挑戦を希望していましたが、藤波は対戦拒否どころか「名前を出してほしくない」と絶縁を宣言。のちに剛が逮捕されたときには「ライバルとか言われたら気分悪いですよ」とまで発言していたものでした。

このガチな発言に対し、不起訴となって釈放された剛は「自分トコの若手が女に刺されたときはあんなにかばってたクセに」とこちらもシュートすぎる発言をかましていたものです。


そんな藤波ですが、今回の訃報には「選手仲間としてショック。三沢、橋本、ジャンボ(鶴田)と、同じ世代の選手がどんどん亡くなっていく。とにかくご冥福をお祈りしたい」と弔意を表しています。


この態度の変わり方を「コンニャク」だの「オデン」だのと批判するのはたやすいですが、まぁ辰つぁんの人柄からいって、亡くなった人の悪口は言わないでしょうからねぇ。

プロレス「地獄変」 (別冊宝島 1630 ノンフィクション)

プロレス「地獄変」 (別冊宝島 1630 ノンフィクション)



とにかく、稀代の「プロレスバカ」は帰らぬ人となりました。名レスラーだったとも人気者だったとも人格者だったとも言い難いですが、それでも「プロレス」という文化が持つ一面を象徴するような人物でありました。