ボーイズはボーイズ

柳澤健さん(会ったことがあるのでさん付け)の『1964年のジャイアント馬場』と、鈴木涼美の『身体を売ったらサヨウナラ』を同時進行で読んでいると、自我が引き裂かれる(哲学という言葉を知った中学生が使いたがるような言い回しである)のを感じますね。

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場

『1964年のジャイアント馬場』は、徹頭徹尾オレのために存在しているような本で、最初から最後まで、オレの興味を惹かない言葉はひとつも書かれていないわけですよ。
ジャイアント馬場の生い立ち、アメリカ修業時代のエピソード、帰国してからのさまざまな戦い。どれをとってもオレにとって居心地のいい世界で、出てくる人種も非常になじみ深く、オレから見て魅力的な人々ばかりでどの人物にも感情移入できるし、出てくる固有名詞も、オレが知らないものはどれひとつとしてない。文章もむだな修飾のない、パキっと締まったセンテンスが非常に心地よいです。



それに対して『身体を売ったらサヨウナラ』は、オレが理解できる人物はひとりも出てこない。主人公たる著者はすさまじい渇望の持ち主で、愛情やお金や学歴や仕事や知識やあらゆるものをいくら恵まれても決して満たされず、おそらくは渇望し続けることそのものを求めている、修羅のごとき人物です。描かれているのは主にキャバクラとホストクラブの人間模様で、とてもバブル崩壊後の話とは思えず、オレにとって興味深い人間はひとりもいない。とくにオトコはどいつもこいつもろくでなしばかりで、あぁこれがオンナの世界なんだろうなあと思わされます。文章もひとつひとつのセンテンスが長く、しかもほとんどの文章が「○○は××だというけれど、私にとって△△は□□だったりして、でも結局のところやっぱり××に落ち着く人の気持ちもわからなくはない」といった調子の粘っこさで、読んでいると非常に消耗が激しい。まぁ要するに、単行本一冊にわたってずーーーっとガールズトークを繰り広げるような本です。


でもね、世界の半分はガールズトークでできているという単純な事実を、われわれボーイズは往々にして忘れがちじゃないですか。人間って、どうしても居心地のいい世界にとどまろうとしちゃうから。
世界にはオレの理解できない領域がたっぷりあって、おそらくはそこに生きている人たちのほうがオレよりも強い。オレが武器だと思って持っているものの多くは、その世界の人たちにはまるで刃が立たない。そういうことを忘れないためにも、ガールズトークの本だってたまに読んでおく必要があるのかもしらんなあ。ということにしておこう。




ちなみに『身体を売ったらサヨウナラ』には、オレにもわかるギャグがひとつだけありました。




鈴木涼美が初めてホストクラブにハマったとき、指名していたホストを「マサト」という仮名で呼んでいるのですが、その人のことを「マサトだか武蔵だか知らないが」と評しているんですね。

平謝り―K‐1凋落、本当の理由

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なお、鈴木涼美が学生時代にやっていたAV女優「佐藤るり」のデビュー作では、好きな男性のタイプを聞かれた彼女が「マッチョな人がいい。K−1とか好きだから」とか言ってた直後にマッチョ男優の戸川夏也が出てくるので「テキトーなこと言ってんなあ」と思っていたんですが、少なくとも魔裟斗と武蔵が近いジャンルの別人だということぐらいは知っていたようです。