「いただきます」の効能

はてな匿名ダイアリーって、暗黙の了解で受け入れられている日本的慣習に納得いかないギーク系の人が「合理的に考えればおかしい」と違和感を表明する記事がちょくちょく話題になっている印象がありますが、今日の話題はこちら。


「食事前に手を合わせて『いただきます』」に違和感がある 「食事前に手を合わせて『いただきます』」に違和感がある

 一体誰に向かって言ってるの?

 食事を作ってくれた人への感謝の気持ちならわかる。だったら作ってくれた人のほうを向いて「ありがとう」っていうのが正しいよね。俺はそうしてる。

 でも作ってくれた人のほうを見ないで「いただきます」って誰に言ってるの? やっぱりあれか、日々の糧を与えてくれた神とか、「食材として命を与えてくれた」生き物に言ってるわけか。日本人によくあるアミニズム的世界観とか仏教的な捨身の発想で。

 でもはっきり言うけど、神なんて存在しない。人間の空想と合理化思考の産物。居ない相手に感謝しても無意味。

 生き物の命を奪っているといっても利用可能な自然を可能な方法で利用しているだけ。生物界は食物連鎖でなりたっており、他の生物を捕食するのは必然であって善でも悪でもない。俺は必要であれば生き物を殺して食材にするし、必要なければ殺さない。これは経済的問題であって、資源の利用に善だの悪だの自己犠牲だのの価値観を持ち込むのはおかしい。

 食事前に手を合わせて「いただきます」をいう人は育ちが良さそうに見えると聞くが、俺は全くそうは思わない。無意味なことをやっている、合理的思考のできない人間だと思う。

 むしろ、食事を作ってくれた人への直接的な感謝を優先しない、不躾なやつだと思う。

このテの、「いただきますなんて言いたくない」という意見はよく話題になります。最近は、モンスターペアレントが「給食費を払っているのだから『いただきます』なんて言う義務はない」と、学校にクレームを付けるという話をよく聞きます。どこまで本当かわかったモンじゃないけど。


似たような記事が、発言小町にもありました。


いただきますの時に手を合わせる番組・広告が多すぎて違和感 : 生活・身近な話題 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) いただきますの時に手を合わせる番組・広告が多すぎて違和感 : 生活・身近な話題 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

家族そろった食卓で、いたあだきますっ!(あ、ま、にアクセント)と
全員手を合わせる風景が、幸せな家族のありかたとして、
番組や広告に登場するようになって数年ですが
非常に違和感があります。


私は昭和生まれの東京育ちですが、子供の頃から
どこの家でも、手を合わせる家はありませんでした。
手はひざにおき、一礼をしました。
高名な方、地位の高い方、尊敬されているお年寄りなどもそうでした。


いただきますのアクセントも、静かに、くせのない、いただきますで
子供は、いただきまぁすと言ったりもしましたが
いたあだきますっ!(あ、ま、にアクセント)は聞いたことがありません。


地域差というものがあると思うので
いつでもなんでも手をあわせて、元気に、いたあだきますっ!に
統一するのはやめて欲しいと思っています。


手をあわせるのは仏壇または仏様へなので違和感がありますし
大きな声を食卓で出すのも嫌です。


手をあわせて、大きな声で、いたあだきますっ!と言うのが
さも常識、正しいことのようになっているので
同僚や合コンなど集まりの時など、それをしないと
変な目で見たり、なぜいただきますの挨拶をきちんとしないのかと
まるで私が常識がないとばかりに言ってくる人がたまにいるのですが、


せっかくの食事会の食事を始める前に、上記理由をいちいち言う気にも
ならず、かといって常識がないと言われるのも納得いかないです。


同じ悩みを持つ皆さん、どうしてますか?

こちらの場合は、「いただきます」という作法自体を否定しているのではなく、その内容に違和感があるというもの。
「手を合わせるのは神仏に対してであって、食卓でする作法ではない」「手はひざの上、と教えられてきた」「いただきます、と言うときのアクセントがヘン」という比較的冷静な意見ですが、読んでいるとなんとなくイラッとする書きぶりではあります。典型的な小町文体という感じでしょうか。


これに比べると、「いただきます」そのものを否定しているうえ、典型的な増田文体で書かれている上の増田記事は、イラッと具合もだいぶアップしています。ぼくは食事のときには必ず手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」を言う人間なので、余計にそう感じるのかもしれませんが。


では、ぼくがなぜ「いただきます」「ごちそうさま」を言うかというと、それは別に「生命をいただくことへの感謝」とかそういう宗教くさい理由ではありません。そうしたほうが食事の満足度が増すからです。
このブログやツイッターで、食べ物の話をよく書いているせいか「グルメ」なんていわれることもあるぼくですが、基本的に「何を食べてもおいしい」タイプの人間です。世の中のあらゆるオブジェクトは「おいしいもの」と「食べられないもの」の2種類に分けられる、というのがぼくの世界観です。ぼくにとって、「食べられる」ということはすなわち「おいしい」ということです。
こういう人間は、味覚が貧しいとよく言われるのですが、ぼくはそうは考えません。世間では、何を食べてもまずいという人、おいしさのハードルが高い人を「味覚が鋭い」「グルメ」と評することが多いのですが、ぼくに言わせればそういう人はおいしさに対する感受性が貧しいんです。まずさの感度だけが発達した、いびつな人間だっつう話ですよ。それに対して、ぼくはおいしさの感受性がズバ抜けて鋭敏な人間なんです。何を食べてもおいしい、ってのは恥じるべきことじゃないです。


こういう人間は、おいしさを存分に感じ取るための努力を惜しみません。胃腸と口腔を健康に保ち、食べるタイミングや食事の組み立てを綿密に考えます。そして、食べる前には精神のスイッチを切り替えるのです。

井之頭五郎もこう言っていますが、「誰にも邪魔されず自由で」「救われて」「独りで静かで豊かで」いる状態を作るためには、お店の環境のみならず、自分の精神的チューニングも調整する必要があるのです。

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人間には視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感がありますが、通常、人間は視覚を最優先にして生活しています。犬なら嗅覚、コウモリなら聴覚が優先されていますが、人間は視覚を中心にして世界を認識しています。それを味覚中心にスイッチするためには、儀式が必要です。ジョジョの奇妙な冒険』第2部「戦闘潮流」後半で、ジョセフ・ジョースターとの決闘で出し抜かれ精神的ショックを受けたワムウは、そこから立ち直るために、自分の目を潰すことで精神のスイッチを切り替えます。

まぁ、冷静に考えればワムウの目は潰れてもすぐ治るはずなんですけどね。


ぼくにとっては、生き馬の目を抜く現代社会における戦いの時間から、食べ物のおいしさを充分に味わう安らぎの時間へと、精神のあり方を切り替えるためのスイッチが、手を合わせて「いただきます」を言うことであり、食事を終えて「ごちそうさま」を言うことは、おいしさの記憶を永遠にとどめておくために欠かせない、龍の絵に眼を入れて仕上げる行為なのであります。


「いただきます」は誰かに向けて発する言葉ではなく、自分の中でおいしさを味わう能力を最大限に発揮するための儀式なのであります。誰のためでもない、自分のための、きわめて合理的な思考によって導き出された結論が「いただきます」なのです。



ま、そういうことです。「あんたおかしいわ」というツッコミはいつでも歓迎いたします。