さすらいのヒットマン

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30代後半になっても、10代のころにあったある種のエキセントリックさを失わず、人気の高い菅野美穂ですが、こんなエピソードが伝わってきました。


http://netallica.yahoo.co.jp/news/20130227-00000302-nkcyzo

スタッフに自腹でおごりまくる女優・菅野美穂「バブルのときに、そうしてもらったから」

 ドラマに映画、CMに引っ張りだこの女優・菅野美穂が、スタッフたちから“ある心配”をされているそうだ。

「それが、菅野さんの“おごり癖”なんです。彼女は、共演者だけでなくスタッフ全員に必ず最低一回は食事をおごるのですが、全額自腹で、しかも高級店限定なんです。スタッフには『あなたたちのほうが大変なんだから、いっぱい食べなさい』とか言ってくれて、来られなかったスタッフには別の機会を設けて連れて行ってくれます。こんな女優さんは、ほかにはいませんよ」(ドラマスタッフ)

 好感度ランキングでも常に上位に位置し、CMも現在7本と安定した人気を誇る菅野。毎年、連ドラにも出演し、それなりの数字も取る。それだけに、“財布”の心配はないと思うのだが……。

「彼女は倹約家で知られていますが、スタッフたちを食事に連れて行くだけで、一回で数十万円かかりますからね。彼女と親しいスタッフは『ドラマのギャラは、ほとんど残らないのでは?』というくらい、周囲の人に対してお金を使っていますよ」(テレビ局関係者)

 それは、自身が若手の頃に同じような経験をしたからだそうだ。

「彼女が若手の頃はまだバブル期で、どれだけお金を使っても、なんの問題もありませんでした。でも、今は時代が時代です。それでも、彼女は『私も先輩たちからそうやってもらったんで』と、おごるのをやめようとしないんです。だから、プロデューサーやスタッフたちは『彼女のためなら!』と、なんとかいいドラマにしようと頑張っていますよ。数字が良かろうと悪かろうと、彼女はキャスティングされ続けると思いますよ」(芸能事務所関係者)

 人気の秘密は“人間力”ということか。

カンちゃん、これじゃ阿修羅原になっちゃうよ。

プロレス「地獄変」 (別冊宝島 1630 ノンフィクション)

プロレス「地獄変」 (別冊宝島 1630 ノンフィクション)

1980年代後半のプロレス界を知る人なら、ことのほか思い出深いレスラーが阿修羅原です。元ラグビー日本代表で、1976年に国際プロレスに入団。雪崩式ブレーンバスターを日本で初公開するなど、精力的なファイトを繰り広げますが国際プロレスは1981年に崩壊。全日本プロレスへ移籍し、しばらくは中堅どころにおさまっていましたが、1987年に天龍源一郎と「龍原砲」を結成。長州力ジャパンプロレス勢が離脱し、闘いのテーマを見失いかけていた全日マットに旋風を巻き起こしました。
ジャンボ鶴田輪島大士と熾烈な抗争を繰り広げ、テレビ中継のない地方興行でも20分オーバーの熱戦は当たり前。容赦なく顔面を蹴り上げるそのファイトスタイルに、UWFを率いていた若大将の前田日明も「こんなことをされたんじゃ、俺達の存在意義がなくなる!」と強い危機感を覚えたほどでした。

2人の激しい姿勢に共感をおぼえた川田利明冬木弘道北原光騎小川良成らも合流して「天龍同盟」を結成。全日本プロレスの動きは完全に彼らを中心に回るようになります。
彼らの遊びもまた豪快で、試合後には同盟メンバーとプロレス記者たちを引き連れて連日連夜の豪遊! アイスペールに焼酎やブランデーやウイスキーなど様々な酒をぶち込んだ「天龍カクテル」を記者に呑ませて酔い潰させる、金が足りなくなって社長(当時)ジャイアント馬場のもとに冬木をパシらせ、「お米ごっちゃん」(業界用語で借金のこと)させる、などのエピソードが今も伝わっています。


しかし、原のおごり癖は度を越したものがあって、いつもスタッフや若手を何人も食事に連れて行っていました。当時の原は、太っ腹なところを見せたい、人から「原さんはすごい」と思われたい、というある意味で病的なまでの欲求があった、とのちに本人が述懐しています。しだいに借金の額が膨れ上がり、試合場の控室や会社の事務所にまで借金取りが押しかけるようになります。1988年、これに怒ったジャイアント馬場から「事情を説明しろ」と呼び出されますが、馬場に合わせる顔のなかった原はその場から逃亡してしまい、やむなく解雇されました。
それから3年の長きにわたり、原は北海道で隠遁生活を送ることになりましたが、「週刊ゴング」編集長だった小佐野景浩が原を発見。新団体SWSを旗揚げした天龍の要請によって、リングに復帰しました。多額の借金はSWSの田中八郎社長(メガネスーパー社長)が肩代わりしてくれた、と伝わっています。


1994年に、47歳で引退。その後は故郷の長崎で母校である諫早農業高校のラグビー部コーチに就任し、全国大会に導きましたが、母の死をきっかけに父の介護に専念。現在はその父も他界し、現在は自身の身体をいたわりつつ暮らしているとのことです。


菅野美穂にも、おごり過ぎには気を付けてもらいたいものです。