月の上の観覧車

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本日は、仙台市福祉プラザに荻原浩先生をお迎えした、せんだい文学塾講座を受講してまいりました。


荻原先生は、映画化もされた『明日の記憶』が大ヒットを記録して、出版社から似たような作品の依頼が相次いだそうですが、でもそれに乗っかっては自分はダメになると思われたそうです。

明日の記憶 [DVD]

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ある程度シリアスな傾向の作品が書けたら、次は変わった傾向の作品が書きたくなる、とのこと。


書きたいものを常に心にとどめておくと、それに関する情報のアンテナが鋭敏になるそうです。その現象を荻原先生は、女性が妊娠すると「世間にこんなに妊婦がいたのか」と目に付くようになり、出産すると今度は「世の中にこんなに赤ん坊がいるのか、少子化なんて嘘じゃないか」と思うようになる、と例えて表現されました。これはぼくも、今の車に乗り始めてから「世間にはこんなにインプレッサが走っていたのか」と目に付くようになったので、よくわかります。


で、いちど書いた原稿は一ヶ月ほど机の引き出しに(パソコンのフォルダでもいい)しまっておき、それから見返すと、直すべき点が見えやすいそうです。ずっとかかりきりでいると、見えなくなってしまうとのこと。たしかにぼくも、一ヶ月前のエントリを読み直すと、書いたときには気づかなかった文章の瑕疵が目に付くことがあります。推敲するためには、いちど冷却期間を置くことも必要なんですね。それはおそらく、必ずしも一ヶ月でなければならないわけではなくて、いかに自分の文章を客観的に見ることができるか、ということなんだと思います。


そして、書くときにスラスラ出てきた文章は、あとになると直すべき点が目に付きやすいそうです。スラスラ書けた文章のことを、荻原先生は「自分の中で戦っていない文章」と表現されました。そういう文章は、他の創作物から影響されて出てきた言葉であることが少なくなく、読者との間に存在するであろう共通言語を安易に用いる甘えがある、とのこと。ぼくのブログは共通言語だけで書かれているようなものなので、反省させられる言葉でした。



また、荻原先生は「登場人物の自主性を重んじる」ことを受講生に薦められました。


作品の中に、状況を説明させるためだけの人物を出したり、作者の主張を代弁するためだけの人形にしてしまうことは、上手くない書き手にはありがちなことです。荻原先生は「人物が勝手に動く」経験を何度もされているそうで、そのぐらい登場人物を、作者自身とは違う人格を持った存在としてしっかり生み出すことが必要なんですね。作者がドヤ顔を見せ付けるためだけの文章を書く人は世に多いので、自分も含め、肝に銘じておきたいところです。