ひどい人生になってきました

古本屋でこんな本を見かけたので購入。

あの話、書かせて貰います 2―プロレス取材○秘裏話!? (Nippon sports mook)
今はなき日本スポーツ出版社(「週刊ゴング」版元)から1997年に出た、プロレスムックです。当時は活字プロレスにまだいくらか活気があり、ライバル誌「週刊プロレス」が新日本プロレスから取材拒否を受けていた時期でもあって、両誌の誌面を通じた抗争が熾烈をきわめておりました。


で、このムックでは、「ゴング」編集者や執筆していたライター陣が、取材の過程で触れ合ったレスラーの秘話や、レスラーの売り出しをめぐるエピソードを書いているのですが、とくに面白かったのが、編集長だった小佐野景浩(天龍番記者。この人のあと編集長になったのがGK金沢である)による「週プロのドーム大会を相手に回し意地と信念を貫いた4・2決戦!!」でした。


4・2決戦といっても、もう今の若い人はわからないと思いますが、1995年の4月2日に、週刊プロレスの呼びかけにより東京ドームで全団体参加のオールスター戦が開催され、それに対抗して、週プロ(および編集長だったターザン山本)とは犬猿の仲である天龍源一郎週刊ゴングがバックアップして後楽園ホールで興行を打つという、ほかのスポーツ業界ではありえない興行戦争があったのです。


このときは、それぞれの陣営に分かれていたファンも、それぞれ賛否両論となり、「ゴング」編集部にもさまざまな意見が寄せられたのですが、こんなものもあったとのこと。

 そんな中で、ある雑誌のコラムを送ってくれたファンもいた。エッチ系の雑誌のようで、ライターの名前も”まんこじま”とそれらしいもの。だが、内容はズバリ核心を衝いたものだった。
『俺が天龍源一郎のことで思い出すことといったら、何といっても一番は、全日本プロレスの天龍革命時代、天龍、阿修羅・原、サムソン冬木川田利明と共に、鬼怒川温泉へ一泊の合宿に行った時のことだ。あの時、天龍は絶好調。レボリューション絶好調の時代だった。
 そして、それは合宿といっても、日頃、天龍番といわれるような各紙の記者が集まってくるわけだから、夜ともなると親分肌の天龍は、マスコミを集めて大騒ぎ(中略)他紙の取材陣も、みんな天龍源一郎という大きなふところの中で、酔っていたんだと思う、そして、当時からずっと天龍番を続けているものは…今では、昨年編集長に昇進した、週刊G誌のO編集長ほか、ごくわずかになってしまった。
 天龍が全日本プロレスから離脱して、SWSに移籍した時、週刊P誌以外のすべてのプロレスマスコミは、天龍源一郎の方についた。天龍の人望の厚さ、馬場全日本に対するマスコミ勢の不満が、マスコミ側からもイッキに爆発した時期だった。
 当然、週刊P誌のライバル誌だったG誌は、天龍を応援した。でも結果は…。週刊P誌以外の全マスコミが天龍を応援してきたにもかかわらず、SWSは崩壊。その間に週刊P誌は、プッシュしてきた全日本プロレスと共に躍進を続け、だいたい20万部以上のオバケ週刊誌に成長。業界内でもプロレスファンの間にも、驚異的な力を持つようになっていった。
 そして今年の4月2日、週刊P誌はとうとう東京ドームで、オールスター戦興行を打つ。かつての業界内でのリーダーだったTスポーツが、ここ数年いろいろな団体に声をかけても実現しなかったオールスター戦。そのオールスター戦を、週刊P誌が実現してしまうんだ。他団体の選手との対戦はなく、ひとつひとつの団体から一試合ずつ出させていくシステムだけど、入場式やエンディングのシーンで、どんな交流シーンが観れるか。とにかく今年のプロレス界最大のビッグイベントになるのは、間違いない。
 そうなると一番困るのが、週刊P誌のライバル誌、G誌だ。4月2日のドーム大会は、G誌は意地でも取材できない、というのが本音だろう。発売部数で差をつけられているのもつらいが、これほどビッグな大会を、指を食わえて見ているしかないというのは、雑誌の存亡にかかわる大問題だ。
 ところがその4月2日に、偶然にも後楽園ホールを押さえている団体が、すでにあった。それが、現在の天龍の団体WARだった。それからいろいろ、P誌側との交渉の経緯はあったようだけど、結局天龍は後楽園ホールを取った。それは、結果的には天龍が、週刊P誌に協力せず、G誌をバックアップすることになった。
 はっきり言って4月2日は、WARが後楽園ホールで興行を打たなければ、G誌はヤバかった。それは天龍も、よくわかっていたはず。天龍がSWSに移籍した時、「金で動いた」と言ったP誌と、天龍を応援し続けたG誌。ここでもし天龍が、後楽園ホールをキャンセルし、ドームに出て行ったら、俺はもう、天龍のことを信じられなくなっていただろう。
 4月2日は、きっと大きなドームの隣の、小さな後楽園ホールでも、物語が生まれるはず。どんなにささやかなものであったとしても、それは当事者たちにとっては、忘れられないドラマになるだろう。』

 鬼怒川温泉合宿は、私にとっても天龍同盟取材時代で、もっとも思い出に残っている。これを読んだ時、涙がドッと溢れた。この4・2問題に取り組む中で”天龍さんの主張をファンに伝えて、何が何でも後楽園をバックアップしなければならない!”と思う半面で”ひょっとしたら天龍さんは俺のために東京ドームをキャンセルしてくれたのではないか!?”と薄々、感じていたからである。この”まんこじま”というライターの正体は未だにわからない。それでも、あの鬼怒川温泉で酒を酌み交わした、かつての同志というだけに痛いところを衝いてくれたわけだ。
 私は、この記事の切り抜きを「これ、読みました?」と天龍さんにも見せた。天龍さんは読み終わると「フーン…」と言ったきり、あとは何も言わなかった。

いい話ですね。当時の活字プロレス界をご記憶の方なら、小佐野氏ならずとも涙が溢れると思います。


で、このコラムは、お菓子系雑誌として人気のあった「クリーム」に掲載されたものでした。

Cream (クリーム) 2010年 04月号 [雑誌]

Cream (クリーム) 2010年 04月号 [雑誌]

(↑今でもある)


また、このコラムを書いた”まんこじま”なる人物の正体は、週刊プロレスの記者だった安西伸一である、というのが現在の定説となっています。



あれから15年が経ちました。当時、学業に失敗してクサりきっていた青年のぼくは、すっかり世をすねた中年として今もボンクラ人生をムダに過ごしており、週刊ゴングは親会社のゴタゴタに巻き込まれて休刊、「クリーム」は児童ポルノ法の施行によって誌面の変更を余儀なくされ、アンザイ・グレイシーこと安西伸一は週プロ→格闘技通信ボクシングマガジンと異動を繰り返した末に新潟は八海山の麓にあるベースボール・マガジン社の倉庫に左遷され、サダハルンバ谷川に送った年賀状に書かれたコメント「ひどい人生になってきました」がファンの涙を誘ったものでした。

15年の重みを今さらながら強く感じた、そんなお彼岸の日でありました。