Li Ying Meets The Mothers Of Prevention

今日はとにかくこちらのエントリを。


「靖国 YASUKUNI」 - 恐妻家の献立表


ドキュメンタリー映画靖国』の上映中止をめぐって、hirosakaさんがすばらしい意見を述べておられます。


それにしても、「政治的中立性が疑われる」とか言って検閲を要求した稲田朋美議員が、一方では南京の真実』の賛同者だというのは悪い冗談としか思えないですね。


そもそもね、芸術に政治的中立性なんてものを求める時点でオカシイんですよ。


何が助成金だ。そんなハシタ金でアートを鎖につなごうとするのが、あんたらの言う「伝統と創造」か?


「上映中止は残念」とか、絶対ウソついてるだろ。


みんな空気の読める人ばっかりで、よかったねぇ。あんたがハッキリ言わなくたって、ちゃんと意を汲んでくれるんだもんねぇ。


hirosakaさんは、こう書かれています。

その無難さに難はないのか

  • 反戦チラシの集合ポスト投函に、住居不法侵入罪が適用された一件。
  • 日教組大会への会場貸し出しをプリンスホテルがキャンセルした一件。
  • 来日が予定されていたネグリ氏の入国が拒否された一件。

そして今回の一件。
他にもあったかもしれないが、これくらいで十分だろう。


どれも、言論・表現の自由が直接に制限されたわけではない。


けれども、結果として、この国で言論・表現の自由を行使しようとすると、何らかの制約がかかることを示している。


我が国にはゲシュタポもゲー・ペー・ウーも(いまや特高も)必要ないのだ。


私は、反戦チラシを配ったこともなければ、日教組の組合員でもなく(教員じゃないし)、ネグリ氏の講演を聴きに行こうとも思わず、映画「靖国 YASUKUNI」も観に行こうとも思っていなかった。


だから、私個人については、これら一連の事件によって何か困ったということはない。私にはこれらの事件について利害関係はない。


一連の事件の一つひとつには、私は利害関係をもたないが、それら一連の事件を容認する風潮には無関係ではいられない。ある特定の人たちの想定する「善」と対立する言論・表現は制約されても当然とする態度には断固として反対するし、言論・表現の自由は無難な日常(安全・安心)よりも優先順位が低いとする価値観についても懐疑的である。


もちろん、平凡で貧しい自営業者にすぎない私としても、無難な日常がいかに有り難いものであるかは骨身に染みて知っている。


前衛的な表現活動をする芸術家にだって日常生活はある。日々の暮らしが、常に危険と不安に満ちていることを望み続けられる人はそう多くはいないだろう。


この逆も言える、ということはない。生あっての表現であり、その逆は不可である。だから、無難な日常のありがたさに比べれば、言論・表現の自由は優先度が低いと考える人がいたとしてもおかしくはない。


繰り返すが、私だって、妻に小言をいわれながらささやかな仕事をし、貧しくとも平穏な夕餉の食卓を整えられる毎日が、つつがなく続くことを願わずにはいられない。そのために日々努力をしている。


それでも、もし無難な日常と引き替えに言論・表現の自由など手放せると割り切ってしまったなら、私が必死にしがみついているこの無難な日常というものも、どこか変質してくるのではないだろうか。


はたして、言論・表現の自由を手放して得られる無難さというものは、いま私が大切にしているこの日常と同じものであろうか。

この辺、ぼくも全面的に同意します。


靖国」にしても、最近話題の準児童ポルノにしても、自分にとって好ましくない表現が規制されることを求めている人が多いですが、そんな流れは、いつか必ず自分の首を絞めることになると思うんですよね。


ニーメラー牧師の有名な詩を連想しました。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、

(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)

私は共産主義者ではなかったから。



社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、

私は社会民主主義ではなかったから。



彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、

私は労働組合員ではなかったから。



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彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、

私はユダヤ人などではなかったから。

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そして、彼らが私を攻撃したとき、

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。