総合格闘技ことはじめ

さて今日も『力道山以前の力道山たち』の話です。



日本ではじめての本格的なプロレス興行は、昭和29年2月に蔵前国技館で行われた、シャープ兄弟vs力道山木村政彦組の試合といわれています。


しかし、それに先がけて昭和25年には牛島辰熊八段が中心となってプロ柔道が誕生しており(木村政彦遠藤幸吉が選手として参加)、昭和27年には中村守恵がまとめ役となって柔道vsボクシングの”柔拳”が発足しています。


柔道と拳闘の試合は、明治末に嘉納健治が大日本拳闘会を開き、拳闘を日本に広めるにあたって柔道家と試合をする興行を開いたのがはじまりであり、この昭和の柔拳は創始ではなく復活ということになるのですが、時代の流れは大きく、プロ興行としてグッと本格的なものになっていたのでした。


柔道は、エースの木島幸一七段を中心に十人。ボクサーはトルコ人を中心に十人で、のちにプロレス入りするユセフ・トルコも参加していました。

プロレスへの遺言状

プロレスへの遺言状

ルールは、KOかギブアップで勝ち。一本がない場合は、ポイントで判定。ボクサーはパンチ一発で一点、ダウンを奪うと二点。柔道は投げで二点、押さえ込みで一点、といった具合でした。


さて、総合格闘技なんて言葉が影も形もないこの時代、柔道家はどんな打撃対策をとっていたのでしょうか。


はじめボクシングを知らなかった柔道家たちは、パンチにいいようにやられていたのですが、巡業で九州の久留米に行ったとき、ひとりの小柄な老人が訪ねてきたそうです。


「あんたたちは、拳闘に対する防禦法を知らないらしい。わたしが教えてあげよう」



こんな小さな老人が…と思って聞いてみると、嘉納健治の旧柔拳選手だとのこと。


で、この老人が伝授した防禦法というのが。

  • まず左半身に構える
  • 左ひじを垂直に曲げ、拳を顔面の前に置き、右足をやや幅広く引く
  • 正面からの右パンチは左拳とひじでかわす
  • ガードを破って右ストレートが伸びてきたときは、顔面を引いてかわす
  • 左パンチが飛んできたときは、左右の手で、上下からたたきつけるようにグローブをはさむ
  • 手を抜こうとする体勢の乱れを利用してテイクダウンする


なんとも牧歌的というか、板垣恵介版『餓狼伝』に出てきたチョー先輩を彷彿とさせるアドバイスですが、これでけっこう五分五分に持ち込めたというから、いい時代だったと言うべきでしょうか。


しかし、興行成績の方は伸び悩み、翌昭和28年になると柔拳だけでは苦しくなり、すでにプロ柔道を解散してプロレスに転向していた木村政彦を招聘して、メインに木村のプロレス試合、前座に柔拳試合を行うというスタイルになります。


木村人気は圧倒的で、地方巡業はどこもよく入りましたが運営に不手際が多く、多額の赤字を出してやがて衰退、昭和29年になると力道山のプロレスがプロ格闘技の本流となり、中村&木島コンビは柔拳に見切りを付けて女子プロレスの主宰に乗り出したのでした。