格闘技の黒船

久しぶりに古本屋をのぞいてみたら、小島貞二の『力道山以前の力道山たち』があったので迷わず購入。

現在まで通じる日本のプロレス史について語る場合は、力道山が相撲を廃業した昭和25年からはじまるのがふつうですが、異種格闘技戦はそれ以前からあり、大正十年にアド・サンテルが来日して講道館に挑戦したのはよく知られています。


http://okigura.lolipop.jp/jj/jj/kakutou/kakutop.htm


しかし、さらにさかのぼると、ペリー提督が二度目に来航し、日米和親条約を結んだ嘉永七年(1854年)に、米兵が力士に挑戦した相撲vsレスリング・ボクシングの他流試合の記録があります。


1854年2月26日。


三十人の力士団が横浜にやってきて、ペリー一行との接見式に臨みました。


彼らはまず、幕府がペリーに贈った白米200俵を浜辺から船に積み込んでみせます。

ここで、一俵を手玉に取りながら運んだり、二俵を両脇にかつぎ一俵を口にくわえて運んだりと思い思いのデモンストレーションを行い、中でも、白真弓肥太右衛門なる若手力士は、一人で八俵を運んでみせたというからすごいです。


米俵一つで十九貫、71.25kgありますから、八俵だと570kgあることになります。


日本パワーリフティング協会のHPによると、スクワットの日本記録が435kgなので、これをはるかに上回ることになるわけですね。かなり眉唾物と言わざるを得ないですが、まぁとにかく当時の記録にはそう書いてあります。


んで、米俵運びに続いて稽古相撲を見せ、その激しさでペリーの度肝を抜き、血気盛んな水兵たちの闘志を煽りました。


「チャンピオンに挑戦したい」という兵士たちに、東の大関小柳常吉と、先ほど八俵を運んだ白真弓が受けて立ち、15〜6人が二人にぶつかっていきましたが、相撲ルールでやったのだからお話になりません。ただし、白真弓はパンチを受けて鼻血を出し、呼吸がかなり苦しかったそうです。


ひととおり終わったところで、とくに腕に覚えのある三人の水兵が、大関に再度、今度は三人がけで挑みましたがこれも手もなくひねられ、結果は米軍の完敗。


海軍士官のレイモンドが、通訳を介して小柳に「何を食べ、どんなトレーニングをしているのか」と質問しましたが、その答えもふるっています。

「日本のうまい米と、うまい酒のせいだよ。稽古はいつも死ぬ覚悟でやっている。死ぬまでやるんだと、そう答えておくんなさい」



なるほど、当時からかわいがりの伝統が生きていたんですねぇ。