プロレスとナショナリズム

日本人のナショナリズムについて書いた、こちらのエントリが注目を集めています。


なぜ日本は「すごい」のか/ナショナリズムの起源と民族意識の誕生 - デマこいてんじゃねえ! なぜ日本は「すごい」のか/ナショナリズムの起源と民族意識の誕生 - デマこいてんじゃねえ!


戦後日本のナショナリズムについては、昭和29年に開催された、本邦初の本格的プロレスリング興行を例に挙げて、

1954年2月19日、蔵前国技館は異様な熱気に包まれていた。サンフランシスコから著名なプロレスラー・シャープ兄弟が来日したのだ。

当時の日本は経済的にも国際観光地としても注目されておらず、たとえばベルギー外務大臣代理が来日するだけでもマスコミは大騒ぎをしていた。そんな時代に、世界的なスポーツ選手がやってきたのだ。日本中が見守る中、歴史的なタッグマッチが行われる。シャープ兄弟を迎え撃つのは、柔道の達人・木村政彦と、元相撲力士・力道山……。

リングに上がった選手たちを見て、アナウンサーは叫んだ。

アメリカ人は巨大であります! あの体格では、負けるはずがありません!」

木村の身長は約170cm、力道山は180cmほどで、当時の日本人としては破格の体格をしていた。が、一方のシャープ兄弟はどちらも2メートル近い。この体格差は日本人に敗戦のコンプレックスをまざまざと思い起こさせた。

ところが試合が始まると、信じられないことが起きた。

力道山マイク・シャープに強烈な空手チョップの猛攻をお見舞いした。すると、あのアメリカ人がじりじりと後退を始めたではないか! 観客はワッと沸き立った。マイクはたまらず相棒にタッチ。代わりにリングに飛び込んだベン・シャープを、力道山は勇猛果敢に攻め立てる。ベンはコーナーからコーナーへと追い詰められ、目を白黒させてへたれこんだ。すかさず力道山は押さえ込み――ワン、ツー、スリー!

観客は総立ちで座布団を投げ込んだ。

新橋駅の西口広場には2万人近い観衆が集まり、設置された27インチの街頭テレビに向かって歓声を上げた。日本全体が熱狂につつまれ、プロレスブームに火が付き、テレビはあっという間に普及していった。

力道山の活躍は、敗戦で傷ついた日本人の心を慰撫し、勇気づけた。彼が在日朝鮮人であることは、ひた隠しに隠された。

北朝鮮出身の力道山が、日本人のナショナリズムを称揚したという歴史の皮肉を語っています。


ところで、力道山朝鮮人だったことは現在では常識になっていますが、シャープ兄弟がカナダ人だということは今でもあまり知られていません。


「日本vsアメリカ」のナショナリズム対決が、実際には朝鮮vsカナダだったのだからさらなる皮肉です。


テレビ黎明期のキラーコンテンツがプロレスだったのは、日本に限った話ではありません。アメリカでもゴージャス・ジョージやアントニオ・ロッカがスターになり、軍事政権下の韓国では張永哲(チャン・ヨンチョル)が、やはり軍政下のパキスタンではボル・ブラザーズ(アントニオ猪木と戦ったアクラム・ペールワンら5人兄弟)が国民的ヒーローになっておりました。


どこの国でも、プロレスと人種・民族主義は切り離すことができません。アメリカではローカル・テリトリーが数多く存在し、イタリア系移民の多いニューヨーク地区では先述のアントニオ・ロッカやブルーノ・サンマルチノらイタリア系がベビーフェイスとなっていました。ブラックジャック・マリガンやビル・ワットらカウボーイ・ギミックのレスラーと、ワフー・マクダニエルやビッグ・コマンチネイティヴ・アメリカン・ギミックのレスラーたちは、地域によってベビーフェイスだったりヒールだったり立場が入れ替わっていたものです。


日本でも活躍した「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックは、ナチス・ドイツの生き残りというギミックでしたが、本名はジャック・アドキッセンで、ドイツ人どころかユダヤ人でした。キラー・カール・クラップやクルト・フォン・ヘスなどナチ・ギミックのレスラーは数多く、グレート東郷やハロルド坂田、トージョー・ヤマモトら日系レスラーもアメリカでは悪役として観客の憎悪を掻き立てました。この辺は梶原一騎の漫画によく出てくるので、ご存じの方も多いでしょう。


プロレスの神様カール・ゴッチもドイツ人ギミックで、得意技のジャーマン・スープレックスもドイツ人ギミックに合わせて名付けられたものです。実際のゴッチはベルギー出身でしたが、この事実は長いこと公表されませんでした。「鉄人」ルー・テーズも「カールからドイツ人ギミックを取り去ったら商品価値はゼロだ。『ジャーマン・スープレックス』が『ベルジャン・スープレックス』では語呂が悪いだろう?」と言っていたものです。

異人たちのハリウッド―「民族」をキーワードに読み解くアメリカ映画史

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韓国では、1960年に大韓プロレス協会が朴正煕大統領のバックアップを受けて発足し、張永哲が不動のエースとして君臨しました。
しかし1965年には日本とアメリカで修行した大木金太郎こと金一(キム・イル)が凱旋帰国し、「韓日対抗試合」などを開催してリング内外にわたる段違いの実力を見せつけたことで、張の地位は危うくなります。


大木と張の派閥争いにより、大木派の若手レスラーで2m近い巨体の持ち主である朴松男(パク・ソンナン)が張一派に拉致され、38度線近くの山小屋に5日間飲まず食わずで監禁され、瀕死のところを、国境警備の任に当たっていた国連軍の兵士に救出されるなどの事件も発生します。
そして1965年11月、5カ国対抗プロレス選手権トーナメントが開催され、張永哲は日本の大熊元司と対戦しました。
大熊の猛攻に張はなすすべもなく、キャメルクラッチでギブアップ寸前に追い込まれます。その時、張のセコンドについていたレスラーたちが凶器を手にリングに乱入。大熊に殴る蹴るのリンチを加え、チェーンやメリケンサックで殴られた大熊はたちまち血ダルマになりました。
前代未聞の乱闘は、この事態を警戒していた金一がいつもより多めに配置させていた警官隊により鎮圧されましたが、首謀者の張が警察の事情聴取に「大熊が事前の取り決めを破って一方的に攻撃してきた」と供述したため、全国的に「プロレスは八百長」という認識が広まり、韓国でのプロレス人気はかげりを見せました。


その後は、朴正煕大統領が暗殺されたことや、金一や張永哲の後継者が育たなかったことなどによって韓国のプロレスは衰退していきました。金一は再び日本に渡りますが、すでに一国一城の主になっていたアントニオ猪木ジャイアント馬場に連敗を喫し「格下」の烙印を押され、プロレス界からフェードアウトして漁業などのサイドビジネスに専念します。


先述の監禁事件の被害者である朴松男は、1970年代前半はアメリカに渡り東洋系ヒールとして活躍しましたが、1976年に帰国し、モハメド・アリ戦で世界的に名の売れたアントニオ猪木を韓国に招聘して戦います。


この試合は、地元の英雄である朴が勝つ予定だったのですが、朴の体格や容貌がジャイアント馬場に似ていたため、猪木が「馬場に似たヤツに負けるのはイヤだ!」と負けブックを拒否。朴は猪木にセメントを仕掛けられ、目に指を入れるなどの凄惨な仕打ちを受けたのでありました。

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫)

猪木に敗北した朴はふたたびアメリカに渡り、怪奇派に転向して「韓国の妖怪」などと異名を取りましたが、糖尿病のため1984年に41歳の若さで亡くなりました。


張永哲と金一はずっといがみ合いを続けていましたが、2006年2月にようやく和解。その半年後の8月に張は73歳で死去し、10月には金もその後を追うように亡くなりました。現在の韓国プロレスは、単発的な興行が年に数回打たれる程度の規模にとどまっているようです。


近年のプロレスでは、ポリティカル・コレクトネスの概念が発達したため、エスニックなキャラクターを「悪役」として前面に出したレスラーはほぼ見られません*1。プロレスとナショナリズムが結びついた時代は、遠い昔のことになりました。

*1:ブコメでsusahadeth52623さんの指摘を受け、表現を訂正しました