孤独のグルメ

ミシュランガイド東京版が発売され、売れ行き好調だそうです。

MICHELIN GUIDE東京 2008 (2008)

MICHELIN GUIDE東京 2008 (2008)

この手のガイドブックが出ると、いつも「画一的に評価を下すのはいかがなものか」とか「庶民には高嶺の花」とか批判的な論調が出てきますが、そもそもこういうグルメガイドというのはその発祥からして胡散臭いものなんですね。


フランス革命前後の時期、パリで美食家として知られたグリモ・ド・ラ・レニエールなる人物がいました。

招客必携

招客必携

生まれつき両手の指が癒着していて、指の間に水かきのような膜があり、爪は猛獣のように鋭かったという恐怖奇形人間』の土方巽みたいな人だったグリモ。(↑いつの間にか国内でも買えるようになっていた)
性格も菰田丈五郎に似て屈折しており、その奇人ぶりを示す数々のエピソードが現在まで残っています。
華やかな食物誌 (河出文庫)

華やかな食物誌 (河出文庫)

その宴には絶対に貴族は招待せず、弁護士や俳優、文学者など平民階級のインテリばかりを呼び、召使や乞食も列席したというのですが、宴の内容も風変わりで、最初から最後まで牛肉だけの日があったり、白ワインしか出ない日もあったり、コーヒーを17杯飲まないと追い出される日もあったり、とワケわかんないルールを「哲学的午餐会」と称して列席者に強いていたといいます。


また、大広間を葬儀場に見立てて霊柩台の上で食事をしたり、客をビールとパンで満腹させておいて自分だけ御馳走を食べて見せたり、古代風宴会と称してローマ貴族のような饗宴を催し、汚れた手をナプキンのかわりに美少女の髪の毛でぬぐったり、とその韜晦趣味はとどまるところを知りませんでした。



しかし、革命とその後の恐怖政治の時代を経ると、彼の急進的思想はすっかり衰え、莫大な財産もほとんど失ってしまいます。

「不幸な大革命の時代、中央市場にはたった一匹の立派なひらめも姿を見せたことがなかった」と述懐したグリモですが、それでもなんとか美食の道を追及するべく、ある素敵なアイディアを思いつきます。


彼は、12人の有志をつのって「味の審査会」なる組織を結成し、パリおよびフランス各地の料理店や食料品店を論評する「食通年鑑」というガイドブックを発行したのでした。


新たなブルジョワ階級が勃興してきたパリで、この「食通年鑑」はおおいに歓迎され、料理人の間でもその権威は高まり、グリモのもとにはフランス各地から「ぜひうちの料理を試食してください」とさまざまな珍味が送られてくるようになりました。


こうしてタダで最高級の料理を味わうことに成功したグリモは、およそ十年にわたってフランスに美食の帝王として君臨し、我が世の春を謳歌したのですが、あるとき、「食通年鑑」で酷評されたのに腹を立てた料理人が、「味の審査会」を訪れたことでその権威はいちどに失墜します。


料理人が、門番の制止を振り切って審査室に押し入ると、そこでは、12人分の食器がそろえられたテーブルで、グリモひとりが料理をむさぼり食っていたのでした。


いつのころからか、審査会は完全に有名無実のものとなってしまっていたのを、グリモはひた隠しにして「食通年鑑」を一人で発行し続けていたのです。

審査会は週に一度開かれ、試食や論評が行われる建前だったのですが、グリモはこれを自分だけで一日四回行い、全国から届く山海の珍味をひたすら食べ続けていたのですね。


このスキャンダルが明るみに出たことで、グリモはすっかり信用を失ってパリを追われ、ヴィレール・シュル・オルジュの城館にひっそり閉じこもって、その生涯を終えたといいます。




ミシュランガイドブックは、匿名の調査員が行う試食調査と、身分を明かして取材する訪問調査によってその評価が決定する仕組みになっているのですが、以前「調査員は少数しかおらず、実際には一年間に掲載されている店の一割も回っていない」と暴露されたこともありました。

裏ミシュラン―ヴェールを剥がれた美食の権威

裏ミシュラン―ヴェールを剥がれた美食の権威

200年前から、この手のガイドブックは変わっていないのですね。