パイレーツ・オブ・オホーツク
<昨日より続く>
大正11年10月9日、ニコライエフスクに上陸した江連力一郎一行は、尼港事件の慰霊塔などを見物してその残虐ぶりに悲憤の涙を新たにしました。
現地の居留民は、もう軍の警備艦の護衛つきで引き揚げているところであり、最後の引き揚げ船が出るというので大輝丸もぐずぐずしてはおれず、日本人を救うという目的を果たすこともできず、10月12日、尼港を後にします。
ここで、何の収穫もなく帰ることをよしとしなかった江連隊長は、現地で合流した新たな仲間から、黒竜江の河口付近にソヴィエト政府の船が座礁しているという情報を得ると、「尼港事件の復讐だ」とばかりにこれを略奪することにします。
かくして、海賊稼業をスタートさせた大輝丸一行。
座礁船はあったものの、曳航するのは無理だったため、やむなく、たまたま近くを通りかかったロシア船アンナ号を襲撃してこれを乗っ取り、乗組員4名を仲間の船に監禁します。
続いて、ニコライエフスクからウラジオストクへ向かう政府船を襲撃する計画を立て、これを待ち受けますが待てど暮らせどやって来ない。
やむなく、10月18日にたまたま近くを通りかかったロシア帆船ウェガー号を襲撃し、乗組員を刀や拳銃で殺傷して積荷を強奪します。
- 塩鮭183樽とバラの塩鮭3千尾
- 桜桃83樽
- 鮭腸の塩漬17樽
- 鯨油45樽
- 石油30缶
- 発動機3台
これらを略奪した大輝丸一味は、生き残った船員11名(ロシア人6名、中国人4名、朝鮮人1名)とアンナ号の船員4名の計15名を、10月24日から27日にかけ、皆殺しにして海に投げ込んでしまいました。
ロシア人を殺すときには「大正九年のことを思い知れ」と言っていたそうですが、「おれたちは尼港事件とは関係ないから助けてくれ」と命乞いをする中国人や朝鮮人も殺害しているのだから、大義名分もなにもあったものではありません。
最後に殺害したロシア人は6尺あまりの大男で、斬り損ねて縛っていた縄を切ってしまい、江連隊長に飛び掛って抵抗しようとしましたが、江連はこれを一刀で唐竹割りに斬り倒し、海に蹴り込みました。
近代において、人間を真っ二つの唐竹割りにした稀有な実例とされています。
こうして20人余りを殺害した大輝丸一味は、続いて税関を襲撃して現金を奪う計画を立てますが、ここまで行き当たりばったりで来た彼らにそんな大計画を実行できるはずもなく、この無謀な計画はお流れになり、実り少なく重荷ばかりを背負うことになった航海を終えて日本に帰り、10月30日に大泊に寄航、11月6日に小樽港に帰着してそこで解散となりました。
この当時、極東では革命政権が確立しておらず、国交もなかったので知らん顔してできないこともなかった事件ではありますが、翌年になると仲間の一人が罪の意識に耐え切れずに自首したため、明るみに出ます。
札幌の温泉旅館に潜伏していた江連は、軽川駅(現在のJR函館本線手稲駅)前で逮捕されました。
遠い北海を舞台にした事件で、関係者も全国へ散っていて行方知れずの者もあり、調べに手間取って公判は翌年大正13年から始まりました。
結局、大正14年2月27日に言い渡された判決では、隊長江連力一郎以下34名全員が有罪となり、江連は強盗及び殺人で懲役12年、主要な部下たちはそれぞれ4年〜8年の懲役、他はそれ以下の軽い刑を受けることになりました。
いくら国交のない相手のこととはいえ、この判決の軽さはただごとではありませんが、さらに恩赦で減刑され、江連は昭和のはじめには出所しており、北海道に亡命したソ連人の保護活動に関わったり、剣客として直木三十五と親交を持ったり、と文化人として活動していました。
唐沢俊一の『古本マニア雑学ノート』にも出てくる有名な稀購本『ステッキ術』も、実はこの江連力一郎の著書なんですね。
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