謀略の滑走路

大藪春彦ファンの間では、主人公たちの壮絶な食生活がよく話題になります。

蘇える金狼 野望篇 (角川文庫 緑 362-2)

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蘇える金狼  ブルーレイ [Blu-ray]

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代表作のひとつである『蘇える金狼』では、映画版の松田優作はそれほど変な食生活はしていませんが(印象的なのは、風吹ジュンとセックスしながら喰うステーキぐらいか)原作だとかなりすごい喰い方をしています。主人公のワイルドさを表現するために、主に肉類を異常に大食させています。

  • ボロニア・ソーセージ半キロと目玉焼き5個
  • ビフテキ3皿と大鉢の生野菜
  • 鶏の丸焼き3羽
  • 太いボロニア・ソーセージを1キロほど、素早く胃に送り込む
  • 屋台で焼き鳥30本
  • 1斤近くのパンとバターとチーズを半ポンドずつ
  • パンを半斤とソーセージを500グラム、罐入りのジュースを数本


こんなもんばかり。とくにバターの消費量がすごい。コーヒーにもバターを入れて飲むし、一度の食事で200g入りのバターひと箱をカラにするというのは明らかに異常です。最後のやつは、タクシーの車内でこれをぜんぶ食うんですよ。奇行の域に達してますね。

雪印北海道バター 200g×3個

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最近は、『処刑の掟』に出てくる、ステーキを焼く場面がコピペとして流布されています。

処刑の掟 (広済堂文庫)

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営業用の大きな冷蔵庫に買ってきた食料の大部分を収めた速見は、帽子とジャケットと靴を脱ぎ、金魚鉢ほどの大きなグラスに氷とジンと少量のドライ・ヴェルモットと十滴ほどのアンゴラース・ビタースをぶちこみ、フォークで掻き回した。レモンの皮を放りこむ。
一度に水呑み用グラス三杯分ほどを喉を鳴らせながら飲んだ。露が浮かんだ大きなカクテル・グラスには、まだ三分の二ほどドライ・マルテーニが残った。
速見はアルコールが回ってくると共に猛然と食欲が起こってくるのを覚えた。
テンダーロインの大きな塊りから一キロほどヘンケルの牛刀で切り取り、塩と荒挽きのブラック・ペッパーを振った。
玉ネギを二個ミジン切りにする。ガス・レンジに大きなフライパンを掛けてサラダ油を流しこむ。
煙抜きのファンを廻した。やがて、オイルが煙をあげはじめた。速見はそこに五十グラムほどの牛脂を放りこんだ。菜箸で掻き廻す。
牛脂は焦げながら溶けた。脂がはぜ、速見のシュッティング・グラスに飛び散る。フライパンのまわりからときどき炎があがった。
速見は一キロのテンダーロインをフライパンに入れた。にぎやかな音と共に、脂はさらに飛んだ。
ビーフの肉汁があまり逃げないように、三十秒ほどで速見は肉を引っくり返し、高熱で両面を硬化させた。
また三十秒ほど待ってガスを中火にし、買ってきてあったポテト・サラダに玉ねぎのミジン切りの一個分を混ぜた。
ミディアムに焼いたステーキを大皿に移し、その脇にポテト・サラダを盛りあげる。フライパンに残った牛脂と肉汁のグレーヴィに残りの玉ネギのミジン切りを放りこんで掻き回し、キツネ色に焦がした。そこにショーユと砂糖を入れて沸騰させ、日本酒を一合ほどぶちこんだ。
そうやって作ったグレーヴィ・ソースを焼けたステーキの上から流し、テーブルに運ぶ。
まだ中心部にわずかに血が残るステーキを、ナイフとフォークをいそがしく使って貪り食う。ときどき、ポテト・サラダで口の中の脂を取る。

このように、大藪春彦といえば肉を異常に大食する場面が有名ですが、キャリア後半になると、主人公たちの食生活もだんだん変化します。『アスファルトの虎』あたりになるとかなり栄養面も管理された食事をするようになります(あとアナルのケアも忘れない)。作者自身が体調を崩して食生活を見直したことが影響していると思われます。


キャリア後半に書かれた作品の中で、とくに変わった食事が出てくるのが、武器商人・星島弘を主人公にした「ウエポン・ハンター」シリーズ第2巻『謀略の滑走路』です。

戦場カメラマンと死の商人の二足のわらじを履く星島は、本作では朝鮮戦争の激戦地に残された7500億円相当のダイヤモンドをめぐって、韓国軍や北朝鮮軍と戦います。でもまぁストーリーはこの際どうでもいいようなもんです。


まず星島がソウルのホテル室内で食べる夜食。

冷蔵庫の下段から黄海でとれた辛子明太子の入った樽を出す。それからバター、マスタード、紫蘇の葉、松の実、生朝鮮人参の超薄切りのスライス、フランス・パンを出しテーブルに並べる。
まずフランス・パンを二つに割り、たっぷりとバターを塗る。そしてマスタードを塗り、その上に紫蘇の葉を何枚か並べ、樽から辛子明太子を出し薄く塗る。
ウォッカとフランス・パンを前にして星島はマールボロ・ライトを一本抜き取って口にくわえる。サヴァイヴァル・ライターで火をつけ、深く吸い込んだ煙を吐き出す。
ウォッカを喉の奥に放り込み、フランス・パンを頬ばる。辛子明太子と紫蘇の葉とバターがミックスされた味は韓国の味というより、フランス料理の味がした。

……韓国の要素もフランス料理の要素もないような気がするんですけど。
明太子バターを塗ったフランスパンなら、最近のベーカリーには普通に売ってそうですね。


星島はフランスパンが好きらしく、その翌日に登場する、本作で最大の見せ場である「星島スペシャル」もフランスパンを使ったメニューです。

ホテルの近くの焼肉屋に飛び込み、トミチゲ(鯛チリ)とカルビクイを二人前注文する。その前に水キムチを大ドンブリで二杯頼む。ウェートレスはあきれた顔をしたが、星島の注文通り持ってきた。
ドンブリを摑んで一気に飲み干す。胃が洗われるような爽快感で猛然と食欲が湧いてくる。水キムチは大根を棒状に切ったものを白菜、人参、ニンニクとともに米の煮汁に漬けこんで軽く発酵させたもので、朝鮮独特の漬物だ。
食欲のない時や二日酔いの時など胃をきれいに掃除してくれるということで、愛用されている。普通は、ドンブリに入ってきたものを銘々のスプーンですくって飲む。
星島は鯛チリとカルビクイ二本を平らげた後、なじみのウェートレスを呼び二千ウォンのチップを渡し、星島スペシャルを頼む。
まず、コンロに焼肉用の鉄板を敷き、薄くスライスした牛の脂身を一キロもらい、それがカリカリになるまで焼く。
焼きあがったら、それを鉄板の隅によせ、今度は白菜の茎の部分をバターを混ぜて軽くいためる。これに別に油で揚げた五十グラムのニンニクを加え、さきほどの牛の脂身を加えてよくいためる。最後に青ネギをおろしですったものをふりかける。
これを別に注文したフランス・パンにはさんで食う。それらを全部食べても、一万ウォンだ。日本円に換算したら約三千円で*1、日本の韓国料理屋に較べればただのような安さだ。

なんでわざわざフランスパンに挟む。

牛の脂身一キロというのもおかしいし、水キムチのドンブリを掴んで飲むのもマナー違反です。ツッコミどころ満載ですが、きっと大藪さん、当時はこれを「大藪スペシャル」と称してなじみの店で喰ってたんだろうなぁ。


ちなみに、星島はこの直後に、韓国当局の諜報員と接触するために南大門市場のミリタリー屋で特殊部隊用の軍服を買いまくり、飛んできた実行部隊の男から胃に頭突きをかまされ、星島スペシャルをあたりにまき散らして倒れるのでありました。

*1:本作が発表された1985年当時のレート