アゴなしゲンとオレと悪魔のブルーズ物語

今回は「悪魔の寵児」をご紹介します。

悪魔の寵児 (角川文庫)


横溝正史先生の金田一耕助シリーズは、執筆時期や発表媒体によって作風に大きな変化があります。

一般に「名作」とされる「獄門島」や「八つ墓村」「犬神家の一族」などは、主として昭和20年代に書かれたものでした。
これらの作品は、謎の構成が重厚で、ストーリーも比較的格調高いものになっています。


それに対し、主に昭和30年代になってから書かれた「幽霊男」「吸血蛾」に代表される通俗的作品では、謎の殺人鬼が暗躍し、美女が次々に惨殺されていくという単純かつ俗悪と表現せざるを得ないテイストを持っていました。


これは、作者のモチベーションの低下や文壇の流行の変化によるものでしょうが、本格を望むファンにとってはフラストレーションのたまる状況だったに違いありません。



そんな中、正史は一連の岡山ものの総決算として「悪魔の手毬唄」を執筆します。

悪魔の手毬唄 (角川文庫)

悪魔の手毬唄 (角川文庫)

この作品は、正史の持ちネタをこれでもかと投入した、手塚治虫でいう「ブラック・ジャック」的な位置を持っています。


温泉地に湯治に来た金田一が、過去の陰惨な事件にまつわる新たな事件に巻き込まれるという導入部は「首」と共通するものだし、手毬唄の歌詞に合わせて娘たちが殺されていくというメインストーリーは「獄門島」「犬神家の一族などの見立てものと同様、過去の忌まわしい事件の加害者の子が、村に帰還するとともに新たな事件が発生するというのは八つ墓村、死んだはずの老婆が暗躍するのは悪魔が来たりて笛を吹くの椿子爵に近いものがあり、「夜歩く」「黒猫亭事件」などで得意とする『顔のない死体』のトリックも使われている、と、こうして見るとまったく新味のない作品のような感じもしますが、そこはさすがにベテランの味で、円熟した技巧と情感ある物語を楽しませてくれる、作者の代表作として今も読み継がれる作品になりました。



しかし、この「悪魔の手毬唄」と並行して連載されていたのが「悪魔の寵児」でした。



この作品は、謎の怪人が暗躍し、性豪の実業家・風間欣吾の妻や愛人たちがつぎつぎに凌辱されて惨殺されていくという、典型的な通俗エログロ作品になっています。

被害者の遺体は、心中を装っていたり蝋人形に犯されていたり、と見立て趣向はこちらでも健在なのですが、あまり必然性が感じられず、思いつきでいろんな変態を出してきたような安易さを感じてしまいます。


連載当時、推理小説専門誌「宝石」の編集者として「悪魔の手毬唄」を担当していた大坪直行氏は、角川文庫旧版「悪魔の寵児」解説で、連載時の苦労を回顧されていました。


「手毬唄」の方は、毎回塗炭の苦しみを嘗め、締め切りを過ぎても書けず、毎月原稿をもらうために三日の徹夜を余儀なくされるという毎度毎度の修羅場が繰り広げられていたのですが、「悪魔の寵児」の方は締め切りが後なのに何故か毎回先に出来上がっていて、大坪氏が、
「なんでうちの原稿を先に上げてくれないんですか!」
と、「吼えろペン」の仮面編集のような心の叫びをぶつけると、
「いや、あの作品はそう考えなくても書けるんだよ」

と返されたというからもうグウの音も出ないでしょう。


横溝先生、ちゃんと考えてから書いていただきたかったですね。



アゴなしゲンとオレ物語(21) (ヤンマガKCスペシャル)

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俺と悪魔のブルーズ(1) (アフタヌーンKC)

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現在、「まったく作風の違う作品を並行して連載している」漫画家としては平本アキラが真っ先に思い浮かびますが、ここでも「アフタヌーン」の編集者が苦しんだりしているんでしょうか。


最近は「アゴなしゲン」の方がだんだん「俺と悪魔」の作風に近づいてきたような気もするので、どっちの担当も苦労していそうな気もします。