田中ユタカは「モンド漫画家」である

といっても「コミック時代活劇」連載の「必殺仕置長屋」とはまったく関係ない。

田中ユタカという漫画家は、ラブリーなH漫画を描き続けてきた作家だが、ヤングアニマルに連載された「愛人 AI−REN」で新境地を開き、高い評価を得ている。
アフタヌーン2月号に掲載された読み切り「ミミア姫」は、「愛人」と共通する世界観を持ち、今後の連載などの展開に色気を持たせた終わり方になっている。
これらの作品に共通するカラーは、悲しみとまがまがしさを秘めた美しさだ。

愛人 5 (ジェッツコミックス)

愛人 5 (ジェッツコミックス)

「愛人」は、人類が衰退に向かっている、未来とおぼしき時代を背景に、余命わずかな少年と、彼に擬似的な配偶者として与えられた人造人間の少女(この作品ではこれを愛人<アイレン>と呼ぶ)との愛と死を描いた作品だ。

ちょっとのけぞるほど暗く救いのない設定だが、主人公たちは精一杯しあわせであろうとする。その姿は大の男の涙を誘うほどの悲惨美がある。

ストーリーの中には、謎の超越者HITOの登場や人類全体にかけられた呪いなど、スケールの大きな展開もあるが、あくまでそれらは背景で、メインは二人のミニマムな世界の描写である。


ここでいう<愛人>というのはいわば冥婚の変形だ。
冥婚とは、東アジアに広くみられる風習で、死者のために擬似的な婚礼を執り行うものである。
津軽地方には、未婚で亡くなったもののために花嫁(花婿)人形を奉納する習慣があるが、それを生前に行うわけだ。


こういう、民族の持つ奇習をセンセーショナルな誇張を交えて紹介する映画作家がいた。
グァルティエロ・ヤコペッティである。

1960年代に「世界残酷物語」および一連の類似作品で「モンド映画」というジャンルを開拓した彼の作品は、ドキュメンタリーという体裁をとっているが、実際にはヤラセと捏造に満ちた、「記録フィルム」というより「再現フィルム」といった方がふさわしいものである。

しかし、そのことは作品の価値をおとしめるものではない。
そこには、奇習のある土地で生きる人々の営みが持つ悲惨美が余すところなく(というか実際以上に)表現されているからだ。
そして、その悲しみは人類に普遍のものである。
文化が相対的なものである以上、この世に奇習ならざる習慣は存在しないからだ。

田中ユタカの最近作「ミミア姫」を見ると、より「奇習の地に生きる悲しみ」が描写されていることがわかる。

この作品の舞台は、呪われた人類の歴史が終わってからはるか未来。新人類は背中に翼を持ち、心で会話することができる。
その世界に生まれた主人公ミミアは、生まれつき翼も持たず心で話すこともできない。旧人類への先祖帰りである。
この世界ではその欠損はスティグマであり、神の子の証とされる。
彼女は、大人になったら「神になるため」聖なる塔から飛ぶことが義務付けられる。
死を意味するその運命を、ミミアは受け容れていく。人々との触れ合いの中で、神を望む声に応えたくなっていったのだ。

そして、彼女が聖なる塔へ旅立つシーンで物語は終わる。
希望に満ちた雰囲気で描かれているが、「神になる」ということが「生贄」であることは誰の目にも明らかだ。

生贄になるために笑顔で旅立つ少女。

これほどの悲惨美があるだろうか。

田中ユタカヤコペッティの後継者である。
こんなことを言っても、あながち的外れではないかもしれない。