必殺・炎上固め

ぼくはジブリ作品を一度も映画館で観たことがない。ソフトを買ったりレンタルしたりしたこともないので、テレビで放送したときにしか観ない。それもちゃんと観ると決めているわけでもない。要はそんなに観てないということだ。

『木根さんの1人でキネマ』でも、主人公の木根さんがジブリを観てないという話があったが、ある種の人間にとって、ジブリ作品というのはどこか肌に合わないものだ。とくに『耳をすませば』は、ぼくは一度も通して観たことがない。女子中学生が、図書館で同じ本を借りている男の子のことを好きになるが、その子はイタリアにヴァイオリン職人の修業に行くことが決まっていて……という大枠と、オチぐらいは知っているが、何というか、ぼくが観るための映画ではないということだ。なので、テレビで放送されるたびに「死にたくなる」などの反応を起こす層に対しては、だったらテレビ観ないでコマンドーでも実況してればいいのに、という気持ちがあったが、まぁそういう気分を味わうために観る映画なのだろう。ラース・フォン・トリアーとかダーレン・アロノフスキーとかだいたいそんな感じだ。


なのでぼくは知らなかったのだが、劇中にこんな問題があったそうな。『耳をすませば』ファンサイトより。
●「耳をすませば」FAQ ●「耳をすませば」FAQ

Q:教室で杉村が夕子に告白の返事を断わっておくと言った後に、男子生徒が「オイ、ゆうべのサスケ見たか?すっげ〜んだ!俺 、感動した!」という台詞を言っていますが、この「サスケ」とは一体何ですか?

A:サスケについては、ストーリーの展開には直接関わりの深い内容ではないためとくに取り上げませんでしたが、セリフ的には少し気になりますよね。これがどのような説があるのかについて調べてみました。

白土三平の忍者漫画説。アニメ版も制作されていたようなので、何らかの形でこれが放映されたという想定です。映画制作スタッフの中に白土三平のファンがいれば、かなり説得力のある説になります。

○時代劇ドラマ説。ズバリ「猿飛佐助」の省略形ですね。

○「みちのくプロレス」のグレートサスケ説。これも結構納得させられる説だと思います。ただ、みちのくプロレスは東京で見られるのかどうか。(^^;

忍者戦隊カクレンジャー説。忍者戦隊カクレンジャーという、ゴレンジャー系の番組に、サスケという登場人物がいるそうです。世代的には「耳をすませば」の世界に近く、後のクラスメイトの反応から推定すると、これも有力な説かもしれません。

そんな問題があったのか……。なお、若い視聴者には『NARUTO』の登場人物を思い浮かべる人もいるようだが、『耳をすませば』の公開が1995年で『NARUTO』の連載開始は1999年なので、これはありえない。また、TBSのアスレチック番組『SASUKE』も初回放送は1997年なので、これもありえない。白土三平や時代劇ドラマは中学生の話題としては不自然だし、『カクレンジャー』にはたしかにニンジャレッドことサスケ(小川輝晃)という人物が出るものの、これも中学生の話題にしては不自然である。


ということはグレート・サスケであろう、と結論が導き出されるものの、ジブリアニメとプロレスというのも、何とも食い合わせが悪いというか、すわりの悪さを感じるマッチングである。


しかし!



はてなプロレスクラスタでも重鎮であり、その情念あふれる文体で現代のターザン山本といわれている(嘘です)id:Derus氏(@pencroft)が、10年前にその結論を出していたのであった!


宮崎駿とプロレス - 挑戦者ストロング 宮崎駿とプロレス - 挑戦者ストロング
宮崎駿による絵コンテを紐解いて、そこに

(ト書き) となりのA格闘技狂が何かはなしている
(台詞) A オイ ゆうべのサスケみたか すげえんだ オレは感動した
(台詞) B ガハハハ

という一節があることを、突き止めていたのであった。そこから結論を導く文章もまた最高である。

これでもう間違いあるまい。

耳をすませば」は監督こそ近藤喜文ではあるものの、これはディレクションのみと考えてよかろう。宮崎駿はクレジット上で脚本・絵コンテ・製作プロデューサーとして表記されており、やはりこれはほぼ宮崎駿支配下で作られた映画と言うべきだ。

つまり世界に名だたるアニメーション監督である宮崎駿は1994年4月のある深夜、テレビ朝日で放送された「ワールドプロレスリング」を観ていたのだ。そしてサスケがライガーにウラカン・ラナで勝つのを観て炎上したのだ。決勝でワイルド・ペガサスに雪崩式パワーボムを喰らって負けたサスケを観て興奮したのだ。メチャ感動しておったのだ。その記憶が、この男子中学生Aの台詞に結実されたのに間違いないのだ。そうに違いないのだ(ドンッ!)。

より細かく考証するなら、「ワールドプロレスリング」の放送は土曜深夜であり、翌日は日曜日で学校は休みなのだが、そこまで気にする必要はなかろう。たしかにあのときのサスケは神がかっていた(近年のサスケは別の意味で神がかっているが……)。プロレスが変わっていく手応えを、ファンはたしかに感じさせられたのだ、サスケのあの飛翔に。


ところで。


「(宮崎監督が)サスケがライガーにウラカン・ラナで勝つのを見て炎上したのだ」という一文を読んで、意味のわからない向きも多いであろう。1994年当時、インターネットはまだ一般に普及しておらず、ネット炎上という概念はまだ影も形もなかった。ネット炎上という言葉が生まれるのは21世紀に入ってからだし、そもそも宮崎駿は今も昔もブログやSNSをやらないので、「炎上」したことはないはずだ。


現代のネット民にとって「炎上」といえば、ブログやツイッターに批判が殺到して収拾がつかなくなることを指す。それ以外には物理的に燃えることを指す意味しかないであろう。

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

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炎上―1974年富士・史上最大のレース事故

炎上―1974年富士・史上最大のレース事故

この用法はもう10年以上も使われているが、それ以前、20世紀末には別の「炎上」があったことを、記憶する民は少なかろう。


「金権編集長」ザンゲ録 (宝島SUGOI文庫)

「金権編集長」ザンゲ録 (宝島SUGOI文庫)


1987年から96年にかけ「週刊プロレス」の編集長をつとめ、活字プロレスの隆盛を担ったターザン山本。非常に毀誉褒貶の多い人物であり、その人間性には否定的な見解を持つ人も少なくないが、そのラディカルな姿勢とセンスは、ある時代を大きくリードしていた。ファンが遠方へ観戦旅行に行くことを「密航」と表現するなど、当時まだプロレスファンが持っていた日陰者意識をくすぐる言語感覚は唯一無二のものであった。当時のぼくは「週刊ゴング」派で、ターザンにはむしろ反感を持っていたが、それでもおおいに影響を受けたことは否定できない。



そのターザンが一時期よく使っていた言葉が「炎上」であった。



これは現代のネット用語とは違い、形而上的な、人間の内面にはたらくある種の作用を指す言葉である。


こう書くと何やらコ難しそうだが、何のことはない。要するに「興奮」である。「萌え」と言ってもいい。激しい戦いを観た結果、そういった感情の昂りが最高潮に達し、抑えきれない状態になるのが「炎上」だ。
プロレスとは人間と人間の戦いであり、そこで表現されるのは喜怒哀楽あらゆる種類のパッションである。人生のすべてがある、といっても過言ではない。観客はそこに己の人生を重ね合わせる。『耳をすませば』が公開された1995年といえば『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された年だが、シンクロ率が限度を超えれば人間というのはおかしくなるものだ。シンジ君がLCLの中に溶けてしまったように、戦うレスラーに自分を重ね合わせ過ぎると、観客は自分を完全にレスラーと同一化してしまう。
その結果、宮崎駿ライガーに勝ったサスケの歓喜を自分のこととして受け止め、ワイルド・ペガサスことクリス・ベノワの雪崩式パワーボムという荒技により、強烈にマットに叩きつけられた凄まじい衝撃を、己の肉体に感じたのであろう。こうなるともう自他の区別はどこにもない。俺がサスケなんだよ! サスケは俺なんだよオオオオォォォォォ! という状態に陥るのである。こういった、客観的には明らかに間違っている論理を、すべて感情の昂りにまかせて押し通す。それが旧世紀における「炎上」なのであった。