魂のデンプシー・ロール

ずっと悪い予感がしていた。


大阪で行われた、ウーゴ・ルイスvs長谷川穂積山中慎介vsアンセルモ・モレノのダブル世界タイトルマッチである。


長谷川は3階級制覇をかけての挑戦で、勝てば国内では最高齢での戴冠となるが、階級を上げて以降の長谷川は、打たれ弱いにも関わらず打ち合いにつきあってしまう悪い癖が、どうにも抜けきらなかった。山中は昨年に2−1のスプリット・ディシジョンで勝った相手との再戦で、大苦戦した相手だけに今回も楽な試合にはならないと予想していた。ふたりとも負けるかもしれない、という悪い予感がどうしてもぬぐえなかった。


先にメインエベントのほうから書くが、山中慎介も、最近の試合ではガードの粗さと打たれ弱さが目立った。前回の防衛戦、vsリボリオ・ソリスの一戦では一発ダウンを1ラウンドに2回も喰らっていたし、チャンスになると左ストレートばかり狙ってほかのパンチが出なくなる悪い癖も、いつになっても直らない。ここで右フックを打てば倒せるのに、といつも思わされるのが山中の攻め方だ。ディフェンスに長けたモレノに、同じ攻め方が通用するはずはない。オレは山中のKO負けすら覚悟していた。


ところが、試合がはじまるとモレノの動きがおかしい。身体が傾いているというか、へっぴり腰というか、軸が定まっていない感じがする。減量苦とは聞いていたが、かなりコンディションが悪そうだ。いつもは焦らないボクサーだが、今日は1ラウンドからいきなり山中の顔面に連打を集める。ワンツーどころか、1,2,3,4,5まで山中の顔面をとらえたのだから驚いた。いくらディフェンスの甘い山中とはいえこれは喰らいすぎだ。スタミナに不安があるから早いラウンドでのKOを狙いにきたのかもしれない、とオレは思った。
しかし山中にダメージはそれほど見られない。ハードパンチャーとはいえないモレノだが、山中だってタフとはいえないボクサーだ。あれだけ連打を集めてダメージを与えられないということは、思った以上に力がないというわけだろう。山中は落ち着いてカウンターで「神の左」を返し、あっさりとダウンを奪った。こういう試合になるとは思ってもみなかったから、心の底から驚いた。


4ラウンドにはお互いに大きく振ったパンチが相討ちとなり、今度は山中が体勢を崩してひっくりかえるようなダウン。倒れても休まずすぐに立ち上がる、というのも山中の悪い癖だ。しかしダメージは深くなさそうだ。4ラウンド終了時の採点は、ジャッジふたりが1ポイント山中リード、ひとりはドローにつけた。ほぼ互角の展開だった。


しかし、前回の対戦とはうって変わっての乱打戦となったこの試合、この展開なら強打の山中がやはり有利だった。6ラウンドには強烈きわまる「神の左」が挑戦者のテンプルをとらえ、モレノはもんどりうってコーナーまで吹っ飛びダウン。ここでもう事実上、勝負は決まっていたといってもいいであろう。なんとかこのラウンドをしのいだモレノだったが、7ラウンド開始早々にまた「神の左」がモレノの顔面を直撃。フォローの右フックまでヒットする完璧なコンビネーションでたまらずダウン。それでも気力を振り絞って立ち上がるモレノだったが、追撃の猛ラッシュをしのぐ余力はもう残っていなかった。コーナーに追い詰められたモレノが腰を落としたところでレフェリーがストップし、7ラウンドTKOで山中慎介の勝利であった。


おそらく、モレノは前回の敗北がホームタウン・ディシジョンによるものと考えていたのであろう。そんなことはない、と断言できる試合ではたしかになかった。そこで、アウェイで勝つには倒すしかない、と慣れない打ち合いを挑んできたのであろう。その闘志と、山中の強打にダウンを奪われながらも立ち上がってきたタフネスは尊敬に値するが、残念ながらモレノ陣営の戦略ミスは否めなかった。



そして、順番が前後するが、セミファイナルで行われたルイスvs長谷川である。



正直いって、ルイスはそれほどの強豪というわけではない。戦績を見ると36勝3敗、うち32KOという数字は立派なものの、勝ってきた相手の戦績を見ると「0勝23敗」だの「1勝37敗」だのというかませ犬ボクサーが目立つし、WBAバンタム級暫定王者だった4年前には、当時「ボクシング世界王者」を僭称していた暴力団関係者の招きに応じて来日し、暫定王座を明け渡すという不祥事も起こしている。とはいえ、ここ最近は強豪とも対戦しノックアウトもしており、油断できないパンチの持ち主ではあるだろう。穂積の打たれ弱さ、そして打ち合いにつきあってしまう悪い意味での気の強さが出ると、最悪の結果を招くことにもなりかねない。



試合は1ラウンドから、上背のあるルイスが右の強打を狙い、穂積は素早い前後の出入りから上下に左のパンチを散らす展開。しかし1ラウンドには偶然のバッティングでルイスが鼻を負傷し、穂積が1点減点される。3ラウンドにもバッティングで一時中断し、また再三にわたって両選手の足元がすべるなど、ややガチャガチャした試合となった。ルイスの鼻血も多く、口を開け気味だったので鼻骨が折れていたのかもしれない。


4ラウンド終了時の採点は、僅差ながら2−1でルイス優勢。ここから穂積が猛反撃を見せた。世界の頂点に立っていたあの左ストレートを再三にわたりヒットさせ、流れを完全に引き寄せる。7ラウンドはまた偶然のバッティングで今度は穂積が左まぶたの上から出血。しかし、8ラウンド開始時に「パンチによるカット」とアナウンスされたため、会場は騒然となった。長谷川陣営もこの判定に抗議し、VTR判定によりバッティングと認定されルイスが1点減点。この影響もあって、8ラウンド終了時の採点は2−1で長谷川が優勢となる。ジャッジの1人は6ポイントも差をつけるほどだったため、ルイスも「このままでは負ける」と反撃に出る。ルイスの左フックがヒットし、ぐらついた穂積はロープ際に追い込まれ、足を止めての打ち合いに持ち込まれてしまった。


長谷川穂積が負けるときの展開は、いつもこうだった。フェルナンド・モンティエルに負けたときも、ジョニー・ゴンザレスにやられたときも、キコ・マルチネスに倒されたときもそうだった。足を止めて打ち合う、というのは穂積の最大の欠点だ。「もうダメだ」「穂積の伝説もここで終わりだ」オレは頭を抱えて絶望した。


ところが、長谷川穂積はここで、思ってもみなかった戦法をとるのである。


至近距離から左右のフックをブンブンと振り回すルイスに対し、穂積はそのパンチをダッキングとウィービングでかわしつつ、逆に左右のフックを連打する。追いつめたはずのルイスの顔面があっという間に赤く染まった。穂積の上体は横8の字、∞の軌道を描いて動き、左右のパンチを次々にルイスの顔面へヒットさせた。


なんと『はじめの一歩』の必殺技、デンプシー・ロール長谷川穂積はここで炸裂させたのである!

(最初に出してからもう20年以上も経つのか……)


絶好のチャンスと見ていたルイスが逆に押し返され、腫れあがった顔面へさらに穂積の左ストレートが襲いかかる。ダウンこそ免れたものの、深いダメージを負ったルイスは防戦一方となり9ラウンド終了。そして、10ラウンド開始のゴングが打ち鳴らされても、ルイスはコーナーから立ち上がれなかった。ウーゴ・ルイスのギブアップにより長谷川穂積のTKO勝ち、日本人では3人目となる3階級制覇達成である。




オレは泣いた。ただ泣いた。長谷川穂積がチャンピオンになったのは2005年、オレがこのブログを書き始めた年である。それから11年の月日が流れた。オレにもいろいろあったし穂積にもいろいろあった。ボクシング界にもいろいろあったし日本にも世界にもいろいろあった。でもオレにとって、5つ年下の長谷川穂積はいつも最高のヒーローだった。絶妙のカウンターと抜群の見切り、天上の域ともいえるテクニック、そして静かに溢れる闘志とそれに見合わぬグラスジョー。どれもこれも、欠点さえもオレにとっては最高に魅力的だった。


その穂積が、「打ち合いにつきあってしまう」という悪い癖が今回も出たのに、その打ち合いを完全に制して勝った。それもカウントアウトでもレフェリーストップでもない、相手の闘志を完全にへし折ってのギブアップ勝ちだ。こういうタフな試合を長谷川が制したというのは記憶にない。穂積はいつもスマートに戦ってスマートに勝つボクサーだった。その穂積が、苦手としていた真っ向からの打ち合いで、力で勝ってみせたのだ。これが泣かずにいられるものか。


「これが最後」「負ければ引退」という、いままでのキャリアの集大成となる試合だった。オレも、全盛期を過ぎた穂積がいかに過去のスピードとテクニックを保っているか、ばかり気にしていた。しかし長谷川穂積は、いままで見せたことのない技で、新しい勝ち方をしてみせた。穂積は過去の栄光など見ていなかったのだ。もっともっと強くなろう、ということしか考えていなかったのだ。これだけの実績がありながら、穂積には王者の驕りなど欠片もなく、あくまで挑戦者として戦っていたのだ。穂積よ、オレが悪かった。



http://www.nikkansports.com/battle/news/1710944.html

長谷川穂積Vに妻は涙、長男から抱え上げられ祝福

<プロボクシング:WBCスーパーバンタム級選手権12回戦>◇16日◇エディオンアリーナ大阪

 挑戦者の長谷川穂積(35=真正)が、5年5カ月ぶりに世界王者に返り咲いた。試合後は世界戦で勝った時だけリングに家族を上げる「勝利の儀式」を行った。長男大翔(ひろと)くん(13)と長女穂乃(ほの)ちゃん(10)をリング上へ。インタビュー中に「息子に抱っこしてもらってもいいですか」と切り出すと、168センチの自分より背が高い170センチの大翔くんに抱き上げられた。

 大翔くんは「減量もしていたし軽かった。うれしかった」とニッコリ。リング上では「ここから見る景色はどうや。こんなところで戦ってんねんで」と父に声をかけられたという。穂乃ちゃんは「『リングに上がらせてあげるね』とずっと言っていました。(父は)優しくていろいろしてくれる。格好良かった」と感激していた。

 妻泰子さん(37)は「言葉が見つからない。うれしい。今日、お昼ご飯を食べながら『この試合に勝つことだけを考えて行ってくる』と言っていた。疲れているので、ゆっくりさせてあげたい」と涙を流した。