非モテの丸かじり

モテない男共は、なぜモテないか。


最近になって、やっと気が付いたことが、一つだけある。


それは、われわれモテない男共は、男対女の関係を、常に、モテているか、モテていないか、という関係でのみ考えるからではないか、ということである。


例えば、男女のグループが、喫茶店でダベっているとする。


そうすると、われわれモテない男共は、この中での自分の位置を、すぐ考えてしまうのである。


自分は今、この女性たちにモテているのだろうか、モテていないのだろうか。


そして、モテていないことがわかるや、いち早くひがみ、モテていることがわかるや、いち早く有頂天になってしまうのである。


男と女の関係を、常に、モテているか、モテていないかのどちらかに区分し、自分を、このどちらかに一刻も早く所属させたいと、もがき苦しむのである。


だが実際は、男と女の関係は、この二つだけでなく、もう一つ「普通の状態」というのがあるらしいのだ。


つまり、モテているわけでもなく、モテていないわけでもない、という状態である。


モテる男に言わせると、実は、この状態のときが一番大切であって、この状態からモテる状態に移行する場合もあるし、あるいはモテない状態に移行する場合もある、というのである。


それなのに、われわれモテない男共は、のっけの最初から、サアどうだ? オレは、この場でモテるのか、モテないのか? サアどっちだ? 早く決めてくれェ! という態度をとってしまうのである。


そうして、モテないほうに区分けされると、かえって安心し、(いつもの通りだから)たちまちふてくされ、一同を冷ややかな目で見下し、ただでさえモテないのに、ますますモテなくなってしまうのである。


また、モテるほうに区分されかかると、たちまち有頂天になり、モテない人たちを冷ややかに見下し、軽蔑した発言をするので、せっかくモテかかったチャンスをも逸してしまうことになるのである。


そうして、たちまちふてくされ、ますますモテなくなってしまうのである。


まぁ結局のところ、いずれにしてもモテないほうに区分されてしまうのである。

この文章、どっかの非モテ系ブロガーが去年か今年あたりに書いたようなのかと思うでしょ。


実は、東海林さだお先生が、35年も前の昭和46年に書いてたものなんですよ。

(この本所収の「いちどだけモテた話」より)

この本には他にも、スクールカーストを描いた「この指とまれ」(昭和55年)とか、著者のニート時代を語る「あの頃の私」(昭和46年)など、昨今のブロガーが好んで取り上げるような話題を、すでに30年も前から、東海林先生はネタにしておられました。


人間の考えることなんて、20年や30年でそう変わるもんじゃないんですね。

もっとコロッケな日本語を (文春文庫)

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わたしも、肉屋さんのコロッケみたいなblogを心がけていたいと思います。