明治の精神

明治150年記念施策、方針決定 「明治の精神に学ぶ」:朝日新聞デジタル 明治150年記念施策、方針決定 「明治の精神に学ぶ」:朝日新聞デジタル

 明治元年から満150年の2018年にあわせた記念施策を検討する政府の関係府省庁連絡会議は26日、関連施策の「基本的な考え方」をまとめた。「明治以降の歩みを次世代に遺(のこ)す」「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」の二つの方針に沿って取り組む。来年夏の18年度予算の概算要求までに各府省庁が具体策をまとめる。

 「歩みを次世代に遺す」では、議会制度や義務教育の導入、鉄道開業や郵便制度の施行など、近代化を表す当時の文書や写真などを集めて展示する。古い資料のデジタル化も進める。若者に日本のあり方を考えてもらう契機にするという。

 「明治の精神を学ぶ」では、能力本位の人材登用が進んだことに着目。各地で活躍した若者や女性、外国人の存在を掘り起こす。「機会の平等」「チャレンジ精神」「和魂洋才」などを知ることにつなげるねらいだ。建築物の公開などを通じ、当時の技術や文化に触れる機会も増やす。「日本の強みを再認識し、日本のさらなる発展をめざす基礎とする」としている。

 とりまとめ役の野上浩太郎官房副長官は「地方公共団体や民間も含めて、日本各地で多様な取り組みが広く推進されるよう機運を高めていきたい」と述べた。(石松恒)

「明治の精神」というと夏目漱石の『こころ』にもあるように、必ずしも肯定的に捉えられるものではありませんが、まぁ政策的にはそんなに意味のない縁起物でしょうから、深く追求してもしょうがない類のものです。明治には能力本位の人材登用が進んだ、と長州藩閥の総理を頂く政権がアピールするのも実にわかりやすい話ではありますが、まぁ別にたいしたものではないです。とにかく懐古さえしていればウケる、という単純な発想です。


ところで、山田風太郎の短篇ミステリに「二人」という作品がありまして。

昭和28年に書かれた作品なんですが、この作中で、20歳ぐらいの若者が、明治から昭和にかけての社会で権力を握っていた世代に対し、痛烈にDISる場面があるんですね。これが実に、ちょっと固有名詞を入れ替えれば現代にも通じる台詞なので、引用いたします。

「僕は、いまの五十、六十歳前後の人々を、全面的に軽蔑します。無鉄砲な戦争をおっぱじめたのもその人々です。そのくせ戦争中、純一な愛国心にもえて戦っている若い人の背後で、闇をやり、ぶつぶつ不平ばかりいい、弱音をあげて足をひっぱったのもその人々です。しかも、戦後は、ちかごろの若い娘は生活力のある中年層に魅力をおぼえている、とかなんとかいい気なことをいって、若者たちの貧しいのにつけこんで、彼らの幸福をうばってしゃあしゃあとしている。口をひらけばアプレ・ゲールはだめだ、明治人のバック・ボーンがない、などいう。彼らが明治人ですか。彼らはただ明治の末に生をうけただけで、頽廃的な大正時代に生長した連中ではありませんか。ほんとうに明治時代をつくりあげた、背骨のある人々の遺業をめちゃめちゃにぶちこわし、惨憺たる残骸をわれわれにゆずりのこしたのは彼らではありませんか。日本歴史のなかで、これほど軽蔑すべき世代の連中は前古未曾有であったと思うんです」

ここでDISられている世代の人々を、近年の日本ではどのように評価しようとしているのかを考えると、さらに味わい深いものがあります。