Acting Like A Maniac, WHIPLASH!(←それじゃない)

セッション [国内盤HQCD仕様]

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映画『セッション』(原題『WHIPLASH』)について、菊地成孔が「ジャズを侮辱している」と酷評。
「セッション!(正規完成稿)〜<パンチドランク・ラヴ(レス)>に打ちのめされる、「危険ドラッグ」を貪る人々〜」 - naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME 「セッション!(正規完成稿)〜<パンチドランク・ラヴ(レス)>に打ちのめされる、「危険ドラッグ」を貪る人々〜」 - naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME


これに対し、町山智浩が「映画としては観るべき価値がある」と反論。
菊地成孔先生の『セッション』批判について - 映画評論家町山智浩アメリカ日記 菊地成孔先生の『セッション』批判について - 映画評論家町山智浩アメリカ日記


美しい流れだ、と言っていいでしょうね。菊地さんはジャズの専門家だから、どんなに映画として出来がよくても、そこで演奏される音楽のレベルが低かったら評価はできないでしょうし、町山さんは映画の専門家だから、映像とストーリーが描き出す感動のほうが優先される。どっちが正しくてどっちが間違ってる、という話ではないです。


町山さんとしては、エントリの冒頭で「このままだと菊地先生のマネをして『セッション』をけなすことで音楽通ぶる人も出てくるでしょう」と書いているように、映画として優れた作品がスノッブな輩の道具として使われるのが我慢できなかったんでしょう。プロレスを知らない人たちから「プロレスラーなんか本当の喧嘩では弱いんだぜ」などと言われ続けてきたプオタとしては、その気持ちもよくわかります。


ただ、町山さんがエントリの最後に書いている、

まあ、こんなに長く書いたのは、『ロッキー』観て感動した後、ボクシングに詳しい人から「あれはボクシングとしておかしいよ」と言われたような気分だったんですよ。


この一文は、映画ファンでもありボクシングファンでもあるぼくとしては、ううむと唸って考え込んでしまうしかないところなのであります。


『ロッキー』は6作目までシリーズ展開されているけど、名作と評価されているのは1作目だけで、『2』以降は、それなりにファンから愛されてはいるけど、批評的に成功したとはいえません。



なぜかというと、『1』では中年無名ボクサーのロッキーが、無敵の王者アポロとの勝ち目のない戦いに挑む過程がドラマの中心であり、リングの上での彼らの戦いは、実はそれほど重要ではないんですね。試合の結果も、もっと言えば試合内容もそれほどの問題ではなく、重要なのは、ロッキーが逃げずにしっかり努力して、全力で試合に挑むという姿そのものなんです。物語のクライマックスはリングで戦っているときではなく、フィラデルフィア美術館の階段を駆け上がるところと、試合後にエイドリアンを呼ぶところで訪れています。


それに対し、『2』以降はロッキーが敵と戦って勝利することが主眼になり、ドラマの展開される場が、リングの上になってしまうんですね。となると、ロッキーが繰り出したパンチがどんなスピードでどんな角度からクラバーのどこにヒットしたのか、ドラゴの腹筋はロッキーのパンチでどのぐらい歪んだのか、そういった事柄の、ストーリー上での重要さが高まっていくわけです。クライマックスは、ロッキーがライバルと戦い、勝利する瞬間に訪れるわけです。


はっきり言って、町山さんも言うように、『ロッキー』シリーズのボクシング描写は、ほかの作品と比べて特段に劣っているわけではないにせよ、リアルとは言えません。パンチは大振りすぎてテレフォンパンチになっているし、あんなに顔面に何発も当たっていたらとっくにノックアウトされているでしょう。でも、本職のボクサーでない俳優が演じている以上、再現するには限界があります。


これは『ロッキー』だけの話ではなく、たとえばダーレン・アロノフスキーの『ブラック・スワン』にしても、ナタリー・ポートマンが演じたヒロインは、バレエに詳しい人からは「一流バレリーナには見えない」「姿勢やスタイルに難がある」などと批判されています。


同じ監督による『レスラー』の場合は、プロレスという競技の特性上、俳優による再現がしやすいのと、また、ミッキー・ローク演じるランディ・ザ・ラムは衰えたかつての名レスラーであり、いまは盛りを過ぎているという設定のため、観客もそれほど高いレベルを要求していないので、そういう批判はあまり出ませんでしたけどね。

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で、これらの作品も『ロッキー』1作目と同じように、作劇上のクライマックスを、ステージやリングでのパフォーマンスそのものには求めていません。『ブラック・スワン』の場合はヒロインのアイデンティティ・クライシスがいかに昇華されるかという点であり、『レスラー』の場合はランディが自分の人生をいかに選択するかというところに、ストーリーの肝があります。現実に存在する競技を再現することが、映画の目的ではないんです。


しかし、『ロッキー』の第2作以降は、俳優が演じているため説得力に限界のある、競技そのものの場面にストーリー上のクライマックスが置かれているため、どうしても、映画全体の説得力が低くなってしまい、結果として酷評を受けてしまったんだと思うんですよね。



今回の『セッション』にしても、町山さんとしては、演奏されている音楽そのものがクライマックスなのではなく、そこで描かれる主人公の心理にストーリーの肝がある、と感じたから、このような評価になったのでしょう。とはいえ、見る人が変われば注目する点も変わるもの。だいじなことは、誰かが酷評した記事を見ただけで、自分がその作品の作り手より偉くなったかのような錯覚を、持たないようにすることです。



とは言っても、やはり人間、自分の好きなジャンルが不正確な描写をされていたら、ツッコミを入れたくなるのは避けられないものですけどね。


菊地さんの文章も、ジャズが高尚な文化とされているせいで、ひねくれた受け取り方をしている人もいると思うんです。
もっとわかりやすい構図にするならば、伊藤政則さんが『デトロイト・メタル・シティ』の映画を観たら、何て言うか想像すればいいと思いますね。

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あの作品の場合、メタルのみならずオサレポップスに関しても、何一つとして合ってないという強引さが味になってたわけですけどね。きっと政則さんなら、「なんでオレがこんなモン見なくちゃいけないんだよ!」ぐらいのことは言ってくれたと思うッスね。
目撃証言 ヘヴィ・メタルの肖像

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