あれから1年
東日本大震災から今日で丸一年が経過しました。いま思い出せるだけ、あのときぼくに何が起こったのか回想してみます。
3月11日(金)
- 午後2時46分、三陸沖を震源とするM9.0の巨大地震が発生。そのときぼくは職場にいたが、同僚ともども建物の外に飛び出す。揺れは3分ほど続き、あまりに強い横揺れのため立っていられずに四つん這いになってこらえる。
- 揺れがおさまる。すぐに停電。職場の建物は壊れなかったが、内部はめちゃくちゃ。中は危険で入れないため、同僚ともども会社の庭で途方にくれる。ちょうど上司がJIS規格の教習で留守だったため、帰っていいかどうか誰も判断できず。
- 電話は非常につながりにくく、メールの発信もほとんどできない。家族と連絡がつかず、心配になる。
- この時点では携帯でネットが繋がったので、とりあえずtwitterとブログで生存報告。
- 携帯のワンセグでニュースを見る。大津波警報が出ていることを知る。3時を過ぎたころから雪が降り出す。3時半ごろに母から「こちらはみんな無事です」とメール着信。返信しようとするが発信できず。その間にもひっきりなしに余震。
- 4時過ぎに、上司と連絡がつかないまま強行帰宅。いつもの通勤路は海岸沿いのため避け、国道4号線を目指す。
- 職場近くのセブンイレブンに入り、とりあえずの食糧を調達。店内はすべての商品が棚から落ち、停電していて薄暗い。そんな中でも、客はみんなちゃんと並んで、お金を払って買い物をしている。とはいえ、誰かが勝手に持ち出し始めたらみんな付和雷同しそうな不穏な雰囲気をみんな我慢しているのが伝わってくる。おにぎりやパンはすでに完売していたので、歌舞伎揚げとブリトー、板チョコを数枚買う。レジの電源が落ちているので、電卓を使い、値段は客が自己申告で買っていく。みんな正直に値段を確認しながら買っていく。割引セールのカップ焼きそばをわざわざ選んでいる人もいて、何やらおかしかった。
- 周囲はすべて停電していて、信号も消えているため各地で大渋滞。カーラジオをつけると、AMの東北放送は電波の出力が弱っていてほとんど聞こえない。FM仙台で被害状況を聞きながら自宅を目指す。腹が減ったので、ワンピースのルフィがパッケージに書かれたブリトーを食べる。冷たいブリトーぐらい味気ないものはないが、このときばかりはうまかった。
- 信号の消えた国道4号線はなかなか進まない。大津波による被害がラジオからどんどん伝わってくる。故郷の釜石市はどうなっているか不安になる。
- 4号線を南下して名取市に入ると、うそのように混雑がなくなる。真っ暗な道路を恐る恐る走り、7時過ぎにやっと自宅に到着。
- 家族は全員無事で、犬も連れて親父殿の車に避難していた。この日、親父殿は風邪で会社を休んで寝ていたので、車に毛布を持ち込んでいた。
- 夜遅くなると携帯が圏外になり、ネットにもまったく繋がらなくなる。
- ぼくは自分の車で、家族は親父殿の車で夜を明かす。一晩中、ひっきりなしに余震が続く。
3月12日(土)
- 4時ごろに明るくなってきて目が覚める。とりあえず建物は大丈夫そうなので自宅マンションに戻る。自室は、積み重ねていた本が崩れ、万年床の上にブラウン管テレビがひっくり返っている。
- ひっくり返ったテレビを元に戻し、崩れた本をどかして寝るスペースを確保し、とりあえず布団で少し眠る。
- 8時ごろに目をさます。新聞が届いていて驚く。
- 停電していてエレベーターはもちろん使えず、水道も出ない。トイレは浴槽にためてあった水で流す。
- 近所のドラッグストアまで買い出しに出る。数百人の行列ができていて、買い物ができるまで2時間以上かかる。店の中には入れないので、倉庫の入り口で露天販売をしている。お一人さまミネラルウォーター1本、パン2個、紙おむつ1点、粉ミルク1点までなどと決められていて、その場で店員が倉庫から取ってくるので非常に時間がかかる。
- この日からしばらくの間、食糧と飲み水の調達に追われる。どこのスーパーでも露天販売で、雪が降る中で長蛇の列を作っていると心の底まで冷え込む。
- いちばんうまく客をさばいていたのが、山形資本のスーパー「ヤマザワ」だった。他の店では、100円均一の商品を客に選ばせて、お一人さま10点までというような売り方をしていたが、「ヤマザワ」ではペットボトル飲料2本、パン2個、缶詰2個をセットにして600円という販売方式だった。サクサク客がはけていった。
- 弟が、近くに来ていた給水車に並んで水をくみに行くが、給水車が小さすぎてまったく水が足りず(10分ほど給水したら、また水を補給しに戻る)あきらめて帰ってくる。
- そうしているうちに、親父殿が市役所で水をもらってきた。
- 昼間に自宅を片付けて戻る。暖房がないため、みんな家の中で厚着をして寒さをしのぐ。
- 手回し充電式のラジオで情報を得る。三陸地方の沿岸部は壊滅状態、とのことで釜石市の親戚が心配になる。
- 夜はロウソクで明かりをとり、家族全員で一室に集まって「これからどうなるんだろう」などと話をする。
3月13日(日)
- 停電していてどこのガソリンスタンドも給油不能だが、数少ない災害対応ステーションでのみ給油できるとのことで、行ってみる。百台以上の車が長蛇の列を作っていてあきらめる。のちのち、給油問題がどれだけぼくたちを苦しめることになるか、この時点ではまだ想像もできなかった。
- マンションの水タンクから直接水をくめることがわかり、タンクを持って水くみにいく。
- この日のうちにLPガスが復旧し、調理ができるようになる。土鍋で飯を炊くが、水加減を誤ってべちゃべちゃになる。缶詰をおかずに、ラップを皿にしておかゆのような飯を食べる。それでも温かいことがありがたい。
- 電気がないので、明るいうちしか行動できない。テレビもないので、本を読む以外に娯楽がない。閉塞感をひしひしと感じながら、密室ものが読みたくなって鮎川哲也の『赤い密室』を読む。
赤い密室―名探偵・星影龍三全集〈1〉 (名探偵・星影竜三全集 (1))
- 作者: 鮎川哲也
- 出版社/メーカー: 出版芸術社
- 発売日: 1996/08
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (9件) を見る
3月14日(月)
- この日は会社には行かず。
- 仙台市中心部の電気が復旧したとラジオで聞き、ガソリンスタンドが復旧したのではないかと行ってみる。予想に反し、スタンドはどこも開いてない。
- 仙台市に入ると携帯の電波が通じるようになったため、ブログ、twitter、mixiに生存報告を書きこむ。
- 地元に帰ってくると、八百屋が開いていたのでとりあえずリンゴとオレンジを買い込む。
- 菓子屋も開いていたので羊羹などを買い込む。すると、雨の中でタクシーも呼べずに困っているおばさんがいた。聞くと、避難所から病院まで行って薬をもらい、その帰りだとのこと。避難所はぼくの自宅と同じ方向なので、車で送っていく。オレンジもあげる。お礼として、千円札をポケットに押し込まれた。
- この日の夕方に電気が復旧する。マンションの水道(タンクから電動ポンプで水をくみ上げる)も同時に復旧したので、ここぞとばかりに風呂をわかし、家族みんな入浴する。しかし、どこの家庭も同じだったらしく、しばらくするとタンクが枯渇して水がパタっと出なくなる。
- ようやくテレビが見られるようになり、被害の大きさが映像でわかる。町が黒い海に呑まれていくようすに茫然となる。
3月15日(火)
- 朝6時に家を出て会社に行く。しかし道はガラガラで、早く着きすぎたので車で少し仮眠をとる。
- 職場の電気はまだ復旧しておらず、クレーンも使えないのでほとんど片付けの仕事は進まない。日が暮れる前にあきらめて帰る。
- ガソリンはあと3分の1ぐらい残っていた。どこのスタンドも、開いてないのに行列を作っている。
3月16日(水)
3月17日(木)
- 旧友の煙羅煙羅くん一家が山元町の小学校に避難しているとの情報があり、会いに行ってみる。お父さんとお母さんがいて、煙羅くんと妻子はすでに別の場所へ避難したことを知らされる。無事が確認できて安心する。
- このあたりになると、週刊の漫画が読めない、雑誌が読めないことにかなりストレスを感じ始める。
- このころから通信が復旧してきて、親戚の無事も確認する。吹き込んでおいた災害伝言ダイヤルがけっこう役に立っていた。
3月18日(金)
3月19日(土)
3月20日〜25日
3月27日(日)
- 煙羅くんの自宅から家財道具を持ち出す手伝いをする。完全に家が破壊されていて言葉を失う。
- 前日に深町先生を「ガソスタ徹夜ですよ、マジやばいッスよ」などと脅していたにも関わらず、この日は30分ほど並んだだけで給油に成功する。
- 震災当初は長蛇の列に対応するノウハウがなかったため、あちこちのスタンドで混乱やトラブルが発生していたが、このころになるとルールが確立してきて(横入りしないように交差点に店員が張り込む、行列は1方向のみに整理する)比較的スムーズになった。
4月7日(木)
- このころには職場の復旧もほぼ終了していたが、夜になるとまた嫌な揺れ方が始まり、ついには震度6の最大余震が来て、また停電する。しょうがないのでまた車で寝る。
4月9日(土)
- 本社から、クレーン用の金具を持った復旧応援チームが駆けつけるものの、クレーンは地震の後は検査しないと使えないことに法律で決まっているので、何もできずにみんな帰っていく。
と、こんな感じで1ヶ月が過ぎたのでありました。