おはよう! スパンク

おとといのエントリで「教育における体罰を考えるシンポジウム」を紹介しましたが、一口に体罰といっても、素手での加撃にはじまって竹刀や精神注入棒による打撃、投げ技や絞め技など格闘技による苦痛、身体拘束や食事を与えないなどの陰湿なものまでその手段は幅広く存在します。


その中にあって、わが国ではそれほど定着していないものの、欧米では広く行われているのが「尻叩き」であります。


スパンキング - Wikipedia


教育や性的興奮を目的としてお尻を叩く行為は「スパンキング」とも呼ばれ、叩く道具によっても、平手による「スマッキング」や鞭による「ウィッピング」、杖による「ケイニング」、櫂による「パドリング」など何種類かに分類されています。


これらの行為は、欧米では家庭のみならずパブリックスクールや孤児院などでも教育の一手段として古くから行われており、お尻を露出させての打撃が、それを受ける子どもに性的トラウマを与える危険性も指摘されています。


で、そんな危険性を孕んだお尻叩きに関連して、味わい深いエピソードを一つ。

『薔薇族』編集長 (幻冬舎アウトロー文庫)

『薔薇族』編集長 (幻冬舎アウトロー文庫)



創刊されて五年目の「薔薇族」文通欄に、フランス人のPさんなる人物からこんな投稿がありました。

■フランス モーガン
私は今は欧州の数ヵ所に印刷所を持つフランス人です。リビエラに住んでおり五人の十八歳から二十二歳の日本人の学生兼ハウスボーイがいます。彼らは仏語その他の語学を学びつつ二十万円の月給を得ています。古い形式の家族のような雰囲気ですが、完全に私を主人として服従しなければなりません。二ヵ月後に四年間私に仕えてくれたふたりが日本に帰国してしまいます。もしあなたが身も心も完全に服従でき、本当に男らしい父親が欲しかったら、そして輝かしい将来のために、手紙をください。写真もください。
(「薔薇族」1975年12月号)


その後も、数年にわたって彼からの投稿が続きました。

■フランスライオン
私は五十四歳の国際ビジネスマンです。若い日本人の男の子を息子として望みます。私は古い父親として、君を愛し、同時に君の百パーセントの服従を望みます。イギリスの古い教育方針で君を教育します。写真同封で手紙を送ってください。
(「薔薇族」1978年10月号)

■ヨーロッパ・校長
私は以前、学校経営をしていた者です。日本の若い男の子を教育したいと思います。父親、主人の私が愛と罰を与えます。私の個人船で旅行し、英語を勉強し、いろいろな国々を見ることができます。すでに日本人の男の子が来ています。英語か日本語で手紙をください。
(「薔薇族」1982年1月号)


豪華な船で世界を旅する大富豪から、日本人の男の子に体罰を与えながら教育したいという願望を綴った手紙が届いていたというのだから、およそ浮世離れのした話というか、どこにリアリティのとっかかりを見つければいいか判断しづらい感がありますね。


伊藤文学編集長も、この投稿をどう扱うべきか悩んでいたそうですが、そんな折、文通欄に自己紹介を載せていた読者から、Pさんから来たという手紙が送られてきました。その読者も、胡散臭さを感じていたのでしょう。「伊藤さんの参考にしてください」との一文を添えられたその手紙は、こんな内容だったそうです。

 君の投稿文を見ました。私は国際ビジネスマンです。私は五十五歳で八万人の生徒を抱えているヨーロッパ諸国にたくさんある私立高校の会長でした。
 私は若い男の子を教育するのが好きな主人、父親、先生です。今は個人客船に住んでいます。
 私の船にはキャプテンとファーストオフィサー、三人の機関士、料理人と四人のセイラーがいます。そして私自身のためにチーフスチュワードとクックアシスタント、それに六人のスチュワードがいます。これら八人の男たちは全員日本人です。私は日本と日本人が好きです。二十一年間、毎年、年二回、日本へ行きました。それら日本の若者は、私を愛してくれ、セックスのみでなく、私を父親として百パーセント服従してくれます。
 私たちは強い父親のもとで生活する古い教育方針が好きです。男の子が何か失敗をした時、私の部屋に来て、ズボンを下ろして罰を受けます。最初にパンツの上からムチで罰を受け、それから私は彼のパンツを下ろし、彼のお尻が赤く、熱くなるまで手で罰を与えます。私は男の子を愛しているので、そんなにひどくは与えません。
 私の男の子はスチュワードとして働くので毎月二十万円の給与があります。船の上での衣食住はすべて無料なので、多額の預金をすることができます。私に以前仕えてくれた男の子は、そのお金を元にしてアメリカで事業を始めました。
 もし君も私の男の子のひとりになりたかったら、私に君のことをすべて書いた長い手紙をください。また最後に体罰を受けたのは、いつのことで、また誰からどのように受けたかもくわしく書いてください。また私が他の男の子も同じように愛することについて、やきもちを焼かないかどうかについても書いてください。

すごいなぁ、この、「男の子の尻を叩く」ことへの熱いこだわり。まったくそんなケのないぼくのような人間でも、クラクラしてきます。


伊藤編集長も、この手紙に書かれていた、私は男の子を愛しているので、そんなにひどく罰するようなことはしないという言葉を信用するしかなかった、と書かれていますが、それって信用していいことなのかどうか、判断するとっかかりがつかめないというかなんというか。


でも、この呼びかけに応じて海を渡った日本人青年も何人かいたらしく、最初に行ったTさんという人はときどき伊藤編集長に連絡をくれて、1976年ごろには、来日したPさんと会わせてもくれました。とりあえず実在はしていたようです。


そのときPさんは、ホテルオークラの一泊百万円近い豪華なスイートルームに泊まっていたのですが、着ている服は粗末で靴も型が崩れており、タクシー代やボーイへのチップも払わなかったとのこと。「金持ちはケチなものなのだろうか」と編集長は述懐されていますが、そういう問題かどうか判断しづらいものがあるというか。


彼は自称「フランスで五指に入る富豪」で、「パリのピカソ家のすぐ近くに、母親と二人暮し」とのことでしたが、これはさすがに伊藤編集長も「本当かどうかは分からない」と慎重に書いています。


そして、時は流れて21世紀に突入した2001年。


Tさんから、Pさんが亡くなったという連絡を受けた伊藤編集長は、久しぶりに彼と会うことにします。


船上でPさんが日本人青年たちとどんな暮らしをしていたのか、聞きたかったのですがそれは教えてもらえませんでした。


Tさんは精神状態がかなりひどくなっていて、ろれつは回らず手は震えっぱなしだったとのことです。


この辺は、下手なホラー小説より恐怖を感じさせますね。いったい何があったんだ…!?



結局、Pさんのもとには三十人以上の日本人青年が渡っていったということだけがわかったのでした。彼らが船上生活で何を得て帰っていったのか、たくさんの日本人青年をはべらせてPさんは幸福だったのか、「今となっては知る由もない」と伊藤編集長は述懐されていますがこのフレーズも何ともいいがたい味があります。


Pさんに忠誠を誓ったTさんには、Pさんの死後にも手当てが送金されていたそうですが、ここまで来るとなんだかイイ話のように思えてくるから不思議なものですね。