「私」のトリニティ

本日は、仙台文学館にて佐伯一麦先生を講師にお迎えした「せんだい文学塾」を受講してまいりました。

とりどりの円を描く

とりどりの円を描く

佐伯先生といえば、現代の文壇では私小説の第一人者と称されていますが、その佐伯先生ならではのお話を、うかがうことができました。


私小説というのは、自分のことをただ書けばいいといものではなく、自分のことばかり見ていても、ガマの油ぐらいしか出てこない、とのこと。

絵本版 ガマの油

絵本版 ガマの油

自分を書くものであると同時に、自分を取り巻く人やものを描くのが私小説であり、そこに現れる「私」には3つの位相があります。


ひとつは、小説の語り手としての「私」。ふたつめは、そこで語られる人物像としての「私」。3つめは、それらを書く、書き手としての「私」。
「私」にはそれぞれの顔があり、それらが一体となって私小説家の「私」が作られている、という構造のことを、佐伯先生は「三位一体」と表現されていたのが、印象的でした。

アウグスティヌス三位一体論

アウグスティヌス三位一体論


考えてみれば、ブログを書くのも私小説に似ているところがあって、一人称としての「ワス」と現実の「オレ」とは決して同じものではないけど、それもひとつの人物像が違う角度から光を当てた姿なのかもしれないな、と思ったワスなのでありました。