モーレツ! 老人帝国の逆襲

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http://www.news-postseven.com/archives/20110416_17432.html

天野祐吉氏 最近流布の「三丁目の夕日症候群」批判に反論

 コラムニストの天野祐吉氏が、最近よく耳にするのが「三丁目の夕日症候群」という言葉である。つまり、昭和を懐かしむ風潮など無意味だという批判だ。しかし天野氏は、「昭和ブーム」は単なる懐古趣味ではないと反論する。
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 昭和8年生まれの私は約62年間続いた“昭和”を生きた人間の一人です。振り返ると、日本が一番豊かだったのは昭和30年代前半の頃だという気がしています。それ以前の昭和は、戦争と戦後の混乱による“血まみれの昭和”だったといえる。そんな時代が終わり、ようやく人間らしい暮らしに戻ることができたのがこの時期でした。
 もちろん誰もが貧しかった。ただ、貧しいながらも当時の日本人は、映画『三丁目の夕日』で描かれたように人間同士の信頼感や助け合いの気持ち、日本人の美風を持っていた。軍隊を持たないという世界でも稀有な国として歩んでいく新しい時代に向かって、誰もが希望に燃えていました。
 日本人が変わっていったのは30年代半ばからの高度経済成長によってです。経済大国への道をまっしぐらに突き進み、「豊かさ」=「モノを買うこと」という神話が生まれた。“カネまみれの昭和”のはじまりです。
 戦後、日本では欲望が解放されました。それ自体は悪いことではありません。問題は欲望の矛先がモノに向かったということです。
 本来、お腹と心は同時に満たされるべきものです。お腹だけが一杯になり、心は空っぽになったのが問題だった。文明的なものにはカネを払うが、文化的なものには見向きもしないという風潮に染まっていったのです。
 江戸時代の町人は、たとえ貧乏でも歌舞伎を観に行き、一番安い天井桟敷から「成田屋っ」とかけ声をあげて楽しんだといいます。今の人は、携帯電話やゲームといった生活を便利、快適にするものにしかお金をかけません。心を耕すことに興味を持たない“非文化大国”になってしまった。これは20世紀後半からの先進国全体の傾向といえます。その中でも日本は突出しているように感じます。


あまの・ゆうきち/1933年東京生まれ。明治学院大学中退後、創元社博報堂を経て独立。マドラ出版を設立し、1979年に『広告批評』を創刊。同誌の編集長・発行人を経てコラムニストとして活躍。2007年3月まで松山市立子規記念博物館館長を務め、現在は名誉館長


週刊ポスト2011年4月22日号

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「昭和30年代前半には誰もが希望に燃えていた」と言われても…。漫画『三丁目の夕日』の中にも、なべ底不況(昭和32年〜33年)で会社が潰れて絶望する人なんかも出てきてるんですけどね。まぁ読者の側からすれば、その後に岩戸景気(昭和33年〜36年)がやってくることが解っているので、再出発の希望があることが暗示されてはいるんですけど。


それにしても、漫画『三丁目の夕日』の連載が「ビッグコミックオリジナル」で始まったのが、昭和49年のこと。開始された当時は、たった16年ていど前を舞台にしていたんですね。それが37年後になってもまったく変わらずに続いているのがどれほどの異常事態か、想像するだに恐ろしいです。もし今、どこかの雑誌で1995年を舞台にした漫画がはじまって、それが2048年までずっと続いてたら絶対におかしいでしょう。


昭和49年は『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになった年でもあり、日本人が未来への無邪気な希望を持てなくなってノスタルジアに目を向けてきた時期だったんでしょうけど、今では昭和49年だって充分ノスタルジアの対象になる時代なんですけどね。

時をかける少女 通常版 [Blu-ray]

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仲里依紗主演版『時をかける少女』は、ヒロインが1974年にタイムリープするお話でした。ちなみに主題歌は、いきものがかりの「ノスタルジア」です。


クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』では、ノスタルジアの対象になった時代は1970年でした。回想する人の年代によって、ノスタルジアの対象も変わってくるんですね。


西岸良平だって、ノスタルジア一辺倒の漫画家だと思われるのは迷惑でしょうけどね。デビュー作「夢野平四郎の青春」なんかは、売れなくなったベテラン漫画家の悲哀を描いていたのに。

主人公・夢野平四郎は、かつて売れっ子漫画家だったが今はセミリタイア状態で、アパートを経営しながら発表のあてもない漫画をコツコツと描いています。
そんな彼のもとに、旧知の編集者から久しぶりに「会いたい」と連絡が来ました。喜び勇んで、新作の原稿をいくつも持って行きますが、用件は「旧作を復刻したい」とのことで、新作には見向きもされません。


復刻された旧作は、はじめは「懐かしの漫画が復活」と控えめな惹句とともに売り出されましたが、好調な売れ行きとともにキャッチコピーも派手になり「不朽の名作」などと大げさに持ち上げられます。ベストセラーになったとはいえ平四郎は虚しい思いで、編集者に「わたしは今までの原稿を全部焼き捨てたいと何度思ったか知れないよ」と漏らします。しかし編集者は次なる復刻作の企画を出して、「みんな味気ない毎日の生活の中で、せめて子供の頃の夢を追っているんですなあ。ははは……」と笑うのでした。ここでは、ノスタルジアは決して肯定的には描かれていません。平四郎はあくまで現役として、創作を続けようとするのですが、それが認められないことに悔し涙を流すのです。



誰だって、子どもの頃や若者の頃は、中高年以降よりは希望もあって明るかったことでしょう。だからって、そのノスタルジアを現代批判に向けられても困ります。


「江戸時代の町人は歌舞伎を見ていたが、今の日本人はゲームをやっている」というのが、なぜ「昔の日本人は文化を愛していたが今はダメだ」という結論になるのかもまったくわかりません。なんでゲームを「生活を便利にする」ものに分類しちゃうんだろう。ゲームぐらい人間の生活を不便にするものもないというのに。

江戸時代の町人だって、もしモンハンがあったらきっと廃人が続出していたと思いますけどね。てやんでえ、このガンランスってやつぁどうにも使いづらくって仕方ねえや、べらぼうめい、とか言って、ね。