いま、殺りにゆきます―RE-DUX

いま、殺(や)りにゆきます―RE‐DUX (光文社文庫)

いま、殺(や)りにゆきます―RE‐DUX (光文社文庫)

昨日は、平山夢明先生を講師にお迎えして「せんだい文学塾」8月講座が開かれました。


4月に山形の「小説家になろう講座」でも講師を務められた平山先生ですが(そのときの模様はこちら→http://www.sakuranbo.co.jp/special/narou/023.html)、今回も絶妙なユーモアを交えつつ、物語を創作する上で大切な「ドラマの目ん玉を開かせる」ことなど熱く語っていただきました。


「ドラマの目ん玉を開かせる」というのは珍しい表現ですが、主人公に行動を決断させ、クライマックスへの導線を作ることを平山先生はそう言います。例えとして、映画『ジョーズ』を引き、

ロイ・シャイダーが、サメに食い殺された少年の母親にひっぱたかれる場面で「ここでドラマの目ん玉が開く」「サメを捕らえない限り、署長は人間として生きていけなくなる」とのことなんですね。


そして、ドラマの目ん玉を開かせるのは、起承転結の「起」でやらないと、その後を読ませる力が生まれません。読者に、この作品はこういう話ですよと提示するのは、なるべく早くする必要があります。ですが、読者は先の展開を予想してしまいますので、その裏をかく仕掛けを「転」に配置するのが常道です。となると、その間の「承」が重要になるんですね。ここで余計なものをそぎ落とし、凝縮する作業が、作品の出来不出来を大きく左右します。よく「起承転結」とはいわれますが、「転」や「結」に比べて軽視されがちな「承」が実は大事なんですね。

講座の後には懇親会もあり、平山先生のトークをかぶりつきで拝聴するという非常にゼイタクな時間を過ごさせていただきました。光文社文庫の『いま、殺りにゆきます―RE-DUX』解説では、町山智浩さんが「夢さんは物真似がうまい」と書いていますが、三次会の席では、その町山さんの物真似まで披露されました。デルモンテ平山によるウェイン町山の物真似というのはあまりにも貴重なパフォーマンスですが、その貴重さを理解できる人間もまた貴重ではないかという気がしないでもないと言っていいものかどうか。