今がその時だ

まだ『憲兵』ネタで引っ張ります。

憲兵〈続〉 (1952年)

憲兵〈続〉 (1952年)

宮崎清隆の『憲兵』は、世に出るや大きな反響を呼び、続編として出版された『続憲兵』では、その書評や読者からの手紙をまとめ、附記「憲兵始末記」として掲載しています。


当時(昭和27年)の雑誌や新聞では、この本が出たことを戦前回帰の危険な風潮ととらえるものが多かったようです。

週刊読売

著者は「東條大将を立派な愛国者だと確信する」人間である。この熱血児の波乱万丈の半生は、読物としてはきわめて興味があるが気をつけて読まぬと恐るべき毒素を含んでいる。

サンデー毎日

すべては正しかったのだ、ただ悪かったのは戦に負けたことなのだ、という考えが、背骨に通っている。おそろしいことではないだろうか。
そして、今の世の中には、こういうことを堂々といわせる素地が十分に出来ているのである。
この書物は、その意味では『時を得て』出て来たのだ。


(中略)


宮崎憲兵軍曹は辻参謀*1を小型にした感じ。頭の働き具合から活動ぶりから文章までよく似ている。ともに自己を客体化して見ることをしない幸福な性格の持ち主である。
そういう幸福な人は文章を書くのには、最も不適任であることを知る必要がある。

報知新聞

(前略)全編にわたるスリルは一気に読ませる魅力を持っている。然し著者の独善的な態度は批判の余地が十分にあるようだ。

内外タイムス

憲兵」というセンセイショナルな書名に過去の憲兵恐怖政治の回顧録と思われがちだが内容は憲兵賞賛の書で読後感に甚だ不愉快さを残すだけである。


(中略)


悪書は悪書なりに価値がある場合もある。
過去の日本軍人精神というものが如何非合理的な機構とインヒューマンな上に建てられているかということが窺えるだけでも逆コースの現在無駄とはいえない。

自称保守の人たちは、よく「戦後に押し付けられた自虐史観から、今こそ脱却するときだ」なんてことを言ってますが、講和直後の昭和27年にはすでにそういう気運があったんですね。



左傾化した反日マスコミ(笑)と違い、読者からの投書はもっと好意的で、中高生から、
「日本軍に貴方の様な立派な男の方がおられたことを誇りとします」
「どうして日本人の大人の人達は日本を自分の祖国でありながらけなさなければならないのか僕達少年には大人の気持がわかりません」
「僕は今後もこういう愛国精神を作るような本が出て国民が、そして大人達が自覚することを祈ります」

などと、現在の熱い愛国者たちのネットへの書き込みにソックリな賞賛が寄せられていたり、戦犯としての追及を逃れて潜伏していた元参謀から手紙が来ていたりして、クラクラしてしまいます。


また、批判的な投書も無視せずに載せており、それらに対する丁寧な返答もしているのですが、見当ハズレな批判をしてきた相手の住所を晒しているというのは、当時の出版倫理からしてもどうかと思われるのでありました。


それと、批判に対し返答を送ったところ、「小生は残念乍ら『憲兵』なる著書を存じません」という返事が返ってきて、何者かが他人の名前を騙って批判していたのだ、と判明したという例も載っています。


匿名批判は卑怯だ、ネットは実名でやるべきだ、なんて論調は今もありますが、こういうのも昔から同じだったんですねぇ。