ケータイ小説をめぐる断章

山田悠介という人がいて、とても文章が下手だというのは世に広く知られているところですが、この人はけっこう誤解されてもいるんですね。


たとえば、こちら。

ケータイ小説は読むものじゃなくて見るものなんだ。 - こころ世代のテンノーゲーム
有名な『リアル鬼ごっこ』の文法的間違いを指摘して、これはケータイ小説というプラットフォームに適応した文章表現なのではないか、という考察を加えているんですが。


山田悠介の小説は、ケータイ配信されたものではないんですけど。

リアル鬼ごっこ

リアル鬼ごっこ

リアル鬼ごっこ』はもともと自費出版で、編集者のチェックや校正が入らなかったために数々の壮絶な表現が訂正されず、そのまま世に出てしまったんですね。


幻冬舎から出た文庫版ではかなり改訂されており、そのテキストとしての価値がかなり減じているといいますから残念なところです。


ケータイ小説がヒドイ、と突っ込むエントリでは、決まって山田悠介の文章が引き合いに出されるのですが、この人はケータイ小説家ではありません。単に文章のヘタクソな人です。間違いやすいので気をつけましょう。




あと、ケータイ小説の内容が、赤裸々な性とか未成年者の飲酒や喫煙とかホストクラブ通いとか援助交際とか、そういう反社会的行為を描いているからけしからん、という意見もまま目にするんですけど。


それは別にかまわんでしょ。小説は道徳の教科書じゃないんだから。
性や暴力や犯罪を描いた文学は枚挙にいとまがないことだし。


でも、それを描く文章があまりにもひどい場合、それは批判されても仕方ないでしょ。

umeten氏はこう書いておられます。

純文学様といったって、所詮、セックス・アンド・バイオレンスじゃないのさ。


ケータイ小説は鬼子だよ、文学=セックス・アンド・バイオレンスのな。


それとも純文学のセックス・アンド・バイオレンスは高尚なセックス・アンド・バイオレンスで、ケータイ小説のセックス・アンド・バイオレンスは下等なセックス・アンド・バイオレンスだってのか?



いやはや、シモの話に上下があるとは。

いや、上下はあるでしょ。

文学はよくてケータイ小説はダメだ、ってことじゃなくて、それがよく書けているかどうか、によって似たような題材でもできの上下は厳然として存在しますよね。


アニメで考えれば、脚本がどうでもヤシガニみたく作画崩壊してたらどうしようもないでしょ。それと同じ。


オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の序文に、

道徳的な書物とか、反道徳的な書物とかいうものは存在しない。書物はよく書けているか、それともよく書けていないか、そのどちらかである。ただそれだけのことだ。

と、あります。

ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)

ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)

と、渋澤龍彦の『少女コレクション序説』で書かれていました。
少女コレクション序説 (中公文庫)

少女コレクション序説 (中公文庫)

そういうことです。よく書けていないものが批判されるのは当然のことです。



といっても、ケータイ小説読むコドモを真顔で批判するのも大人気ないっちゃないんですけどね。



ケータイ小説は、基本的に小説として読むものではなく、友達から来たメールを読む感覚で鑑賞するものなんだと思います。

文章がヘタだとか、展開がありきたりだとか、リアリティがないとかそういうのは言ってはいけないことなんですよ。


トモダチの不幸話に、冷静にツッコミ入れてたらあっという間にスクールカースト最下位に転落しちゃいますからねー。