迷い込んだイリュージョン

今日は「明治事件史探訪」として、明治16年から26年にわたっていくつもの訴訟が行われ、世間を騒がせた「相馬事件」についてお届けいたします。

明治・大正・昭和犯罪史正談

明治・大正・昭和犯罪史正談

ことの発端は、旧相馬中村藩主・相馬誠胤(ともたね)が、明治10年ごろから些細なことで激怒し人を打擲し器物を破壊するようになり、医師の診断によると精神病とのことで、家族が宮内省自宅の座敷牢に監禁すると申し出、これが認められたことにはじまります。

明治17年に警視庁令が改正され、精神病者を自宅に監禁するためには所轄警察署の認可が必要となったのですが、このときに警察署長立会いのもとで診察したらその病状は軽く、自宅監禁が認められなかったため癩狂院(現在でいう精神病院)に入院させることになります。


この時点で、現代の人権感覚でいうとツッコミどころ満載なのですが、当時でもこの扱いにツッコミを入れた人がいたのでした。


旧相馬藩士・錦織剛清なる人物がここで登場します。


誠胤が自宅に監禁されていた明治16年、錦織は、誠胤の監禁は異母弟と家令(家老と執事の中間みたいなもの)の陰謀による不当監禁である、として関係者を告発します。


これに対し、相馬家側も「告発は事実無根」として誣告罪で錦織を告訴し、泥沼の告発・告訴合戦へと発展しました。

明治20年には、錦織は仲間を率いて誠胤が入院させられている東京府立癩狂院(現在の都立松沢病院)に侵入して誠胤を奪取、錦織の黒幕となっていた後藤新平のもとで一泊したのち関西へ移送しようとしますが、静岡で警察に見つかって取り押さえられます。


この事件は一大スキャンダルとなり、不法侵入で禁固刑を受けた錦織には、「主君を救おうとする忠臣」「主家を食い物にする逆賊」という賛否両論が集まりました。


明治25年に誠胤が急死してからはさらに泥沼度は深まり、錦織はその死を陰謀による毒殺としてまたも関係者を告訴、すでに埋葬されていた遺体を発掘し解剖までしますが結局毒殺の証拠は見つからず、錦織は誣告罪で有罪判決を受け、事件はいちおうの決着を見ます。


錦織の告発・告訴には証拠の薄弱さや荒唐無稽な筋書きが目立ち、好意的に解釈することは難しい、山師としか言いようのない人物でしたが、当時のマスコミ(とくに黒岩涙香の「萬朝報」)によるセンセーショナルな報道や、上流社会に対する庶民の不信感もあって彼に同情的な声も多く、後藤新平や大井憲太郎、岡村輝彦など高名な人物も彼の支援にまわり、精神病患者への処遇に関する法整備を求める声が高まり、明治33年には精神病者監護法が制定されました。


ただしこの法律は、精神医療が未発達で医療機関も圧倒的に不足していた現状のため、患者を自宅監禁することに法的根拠を与えるにとどまったのでした。


精神病者監護法は、昭和25年に精神衛生法(現在の精神保健福祉法)が制定されるまで存続し、病人や、事情があって表に出せない人物を、座敷牢に押し込めるという日本の美しき伝統は、その間も絶えることがなかったのです。

奇子(1) (手塚治虫漫画全集)

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ちなみに。


錦織剛清は「にしごりたけきよ」と読むので、たぶん少年隊の錦織一清とは関係ないと思われます。

  • 1986年紅白:少年隊”仮面舞踏会”


(↑司会の加山雄三が「『仮面ライダー』です!」と言った伝説の言いまつがい)
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