M(エム)

M(エム) (文春文庫)

M(エム) (文春文庫)

この週末は、土曜は「せんだい文学塾」日曜は山形の「小説家になろう講座」で、馳星周先生の講座を受けてまいりました。


「せんだい文学塾」は、会場となった仙台文学館が同じ日に「角野栄子サイン会」をやっていたため、そこら中に魔女の格好をした親子連れやら係員やらがいる異様な雰囲気の中、金髪にジーンズのカジュアルな馳先生がいらっしゃいました。

たぶん、ファン層は一人も重なってないでしょうね。


今回はダブルヘッダーとあって、土曜の仙台では文章のテクニックについて具体的に、日曜の山形では馳先生の作家生活についてが講座の中心になりました。
評論家出身の馳先生だけにテクニック面での指摘は的確で、句読点の打ち方や改行のタイミングといった初歩的なことから、人物の人となりを直接の内面描写を交えずにリアクションによって描く手法まで、参考になることばかりです。


馳先生が作家になるまでの経歴もくわしくうかがいましたが、まずその原点にあったのが、子どもの頃に見た『フランダースの犬』だったとのこと。

世界名作劇場・完結版 フランダースの犬 [DVD]

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善良で才能に恵まれた主人公が、懸命の努力もまったく報われることなく不幸のどん底で死んでいくあのラストを見て、世間にはいかに偽善とウソが溢れているか確信したそうです。
馳先生はご両親が共産党員で(本名はレーニンにちなんで「坂東齢人」である)お父さんは党職員で共産党内の問題もいろいろ見ており、お母さんは教師で、旧社会党系である日教組からは陰湿ないじめを受けていたそうですから、あのハードな作風はご両親の教育による幼時からの反権力志向が底にあるんでしょうね。


そんな馳先生の読書歴は、小学校で江戸川乱歩の少年探偵団ものやドリトル先生シリーズを読み始め、中学で大藪春彦と日本SFにはまったことがその後を決定付けたそうです。平井和正のあとがきで米製ハードボイルドについて、田中光二からアリステア・マクリーンなどの冒険小説を知り、そちらへ進んでいったんですね。


で、馳先生が大学に入るころ、ちょうど内藤陳さんが日本冒険小説協会を立ち上げたのでそれに入会し、内藤さんが新宿ゴールデン街で経営する「深夜プラス1」でバーテンとして働き始めたとのこと。内藤さんについては「お酒さえ飲まなければいい人」と述懐されていました。

読まずに死ねるか!〈第5狂奏曲〉

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大学を卒業してケイブンシャに入社された馳先生は、官能小説のグリーンドア文庫を担当して月に三冊出していたそうですが、その当時の作家から上がってくる原稿は300枚あれば200枚ぐらいがあえぎ声で満たされているようなひどいものが多く、八割ぐらいは馳先生が書き直されていたとのこと。唯一、書き直さなくてもよかったのが睦月影郎で、当時の作家で生き残っているのはこの人だけだとか。
全身官能小説家 睦月影郎読本 (ローレンスムック)

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また、編集者として務めながらライターとしても活動し、パソコン雑誌に美少女ゲームのレビューを載せたり、官能小説の書き直し経験を生かして(?)ビジュアルアーツから発売されたエロゲ『ribbon』のノヴェライズも書かれています。

Ribbon (BESTゲームノベルスSERIES)

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(当時は「古神陸」名義)
これを書かれたときは、50がらみのベテラン編集者から「この年になって恥ずかしいぐらい勃起しました」と絶賛されましたが、おっさんからそんなふうに褒められても全然うれしくなかったそうです。そりゃそうだろうと思いました。


しかし、フリーライターをやってても先がないと思い、腰をすえて一年半かけて本格的な小説の執筆にとりかかります。そうして書き上げたのが、あの『不夜城』。

不夜城

不夜城

以後の活躍はみなさんご存知の通りです。


今回は、土曜の仙台と日曜の山形の両方とも、懇親会にまで参加したのですが、仙台では出席者が女性ばかりで、「ベストセラー作家を囲んで男性の本音を聞きだす女子会」の趣きがあり、馳先生も終始ご機嫌で午前2時過ぎまで呑んでおられました。おかげで翌日の朝はかなりお疲れの様子でしたが、それでも山形の講座では淀みなくきれいに話されていたのはさすがだと思いました。しかし山形の出席者は男ばかりで、「ノワール作家にあこがれるボンクラの集まり」という趣きがあったことも記しておき、本日のエントリを締めたいと思います。