認めたくない若さゆえの過ち
気が付けば5年ほど、仙台と山形の小説家講座に通っていて、いつの間にか運営のほうにまで関わるようになりました。
両講座とも、文芸評論家で多くの文学賞の予選委員もつとめる、池上冬樹先生に世話役兼コーディネーターをお願いしているのですが、その池上先生がいつも仰っているのが「エンターテインメントでは、主人公は何らかの苦境を克服しなければならない」「主人公と同等以上の敵対者がいなければ、物語を引っ張る力は生まれない」「主人公は成長するか、何らかの変化をしなければならない」ということです。
これは物語の基本であり、ミステリであれ冒険小説であれ恋愛小説であれ、基本は同じです。ライトノベルにだってこの原則は通用すると思っていました。
ところが、最近のライトノベル業界ではエンターテインメントの基本すら変化してきたようで。
ぼくは現代のライトノベルには詳しくないので、ここでお話している作家さんたちのことは存じ上げないのですが、なかなかショッキングな内容です。
- 挿絵は美少女だけ描いて、主人公の絵は描くなと言われる
- 主人公が読者よりすごい人物だと、嫉妬させられるからダメ
- 地味に努力や伏線を積み重ねていくと鬱展開と呼ばれる
- 主人公が苦労したり失敗する描写があると、読者に批難される
- 特徴のない主人公に全能な力を持たせて、読者を全肯定してやらなければならない
- 主人公が若者にありがちな失敗をすると、読者は「作者に笑いものにされている」と感じる
ええええっ!
小説、いや、漫画でも映画でもそうですけど、フィクションってのは、いやノンフィクションだって、「自分以外の誰かの人生を感じる」ためにあるんじゃなかったの? そこまで読者と主人公を近づけて、しかも甘やかさなきゃいけないの?
少年の成長を描くのはジュヴナイルの基本だったけど、今は最初から最後までずっと無敵じゃなくちゃいけないの?
鬱展開ってのは、例えば親を殺されて恋人が犯されるとか、正義だと信じて戦っていたのに醜い大人たちの欲望に利用されていたとか、正当防衛で人を殺してしまったので空手を封印して罪を償うために生きるとか、そういうのじゃないの?
作者が受け手を馬鹿にしている、ってのはエヴァンゲリオンみたいなのを言うんじゃなかったの?
劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2003/11/27
- メディア: DVD
- 購入: 8人 クリック: 680回
- この商品を含むブログ (316件) を見る
いやー、大人の小説でもライトノベルでも、「物語」の本質は変わらないと思っていたのですが、どうもぼくの知らない間に「ライトノベル」と「物語」はまったく別のものになっていたようです。こういう読み手が大人になったら、どんな本を読むんだろう。それとも、すでに大人の読者がそういうものを求めているんでしょうか。それじゃあ小説どころか漫画もロクに読めないじゃないですか。ラブコメ漫画しか読まないのが今のオタクなの? 梶原一騎の漫画なんて、この感覚だったら鬱漫画ばっかりになっちゃいますよ。『巨人の星』で飛雄馬がクリスマスパーティをやっても誰も来ない話*1とか、あれで「作者に笑いものにされてる」と思っちゃうの?
ぼくが読んでいたライトノベルというと、世代的に高千穂遥とか菊地秀行とか夢枕獏、ちょっと遡って平井和正とかその辺りになります。
菊地秀行の主人公は無敵だけど特別な人間(人間じゃないほうが多いかも)だし、平井和正なんて鬱小説ばっかりです。高千穂遥もよく惑星滅ぼしたりしてますしね。
とくに主人公にひどい失敗をさせるのが夢枕獏で、これは若者向けのライトノベルではないかもしれませんけど、『餓狼伝』の丹波文七なんてリングの上でうんこを漏らすんですよ。
- 作者: 夢枕獏
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2000/11
- メディア: 文庫
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (8件) を見る