死んだ権利

ドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の名作『ダーティハリー』は、脚本段階では『Dead Right(死んだ権利)』というタイトルだった。

アメリカには、ミランダ権というものがある。映画やドラマでよく出てくる、警察が容疑者を逮捕するときに、
「お前には黙秘権がある。お前の証言は裁判で証拠として採用される。お前には弁護士を雇う権利がある。弁護費用がない者は、国が弁護費用を負担する」
と通知する、アレだ。


これは、1966年に少女をレイプして逮捕されたアーネスト・ミランダという男が、自分にそれらの権利があることを知らされないまま裁判にかけられたため、最高裁がその証言を無効としたことから、義務付けられたものだ。


この権利は、公平な刑事裁判を行ううえで重要なものだが、「加害者の権利を守り、被害者の権利はどうなるのだ」と反発する人も少なくはない。


ダーティハリー』は、まさにそういう人の反発心を酌んだ作品だ。


イーストウッド演じるハリー・キャラハン刑事は、少女を誘拐した連続殺人犯”さそり”を追うさい、令状なしで家宅捜索を行い、両手を挙げた無抵抗の容疑者に発砲し、マグナムを喰らった衝撃で骨が砕けたさそりの脚を踏みつけ、拷問で証言を引き出す。


さそりの証言どおりの場所から少女の遺体が見つかり、所持していたライフルの線条痕も、事件で使われたものと一致した。しかし、それらの証拠は採用されず、さそりは釈放される。ハリーの捜査が違法なものだったからだ。


観客はここで、容疑者の権利を守る制度に対して怒りを抱く。


さそりは、さらにその権利を悪用する。黒人の殴り屋に頼んで自分を暴行させ、その怪我を「キャラハン刑事にやられた」とマスコミに吹聴することで、ハリーを捜査から外させるのだ。


この映画において、さそりは純粋な悪として描かれている。彼の過去や背景はまったく語られず、無邪気なまでに悪事を愉しみ、反省も悔恨もありえない。



観客の誰もが、こんな悪党に人権などない、と、ハリーの怒りを共有する。


そこで、観客の共感を得たハリーはついにさそりに立ち向かう。スクールバスをジャックしたさそりに対し、ハリーは陸橋からバスの屋根に飛び乗り、さそりを採石場に追い込む。


そして、追い詰めたさそりにマグナムを突きつけたハリーは、冒頭で銀行強盗を逮捕したときのセリフを繰り返すのだ。

お前の考えてることはわかってる。
オレの拳銃が六発ぜんぶ撃ち尽くしたか、それとも五発しか撃っていないか。
そうだろう?
実を言うと、オレも興奮しててつい数えるのを忘れちまった。
だがな、こいつは44マグナム。世界一強力な拳銃だ。
お前の脳ミソなんざ一発でキレイに吹き飛んじまうぜ。
よーく考えろ、「オレはラッキーか?」ってな。


どうなんだ、クズ野郎!

誰もが胸を躍らせる場面だ。そして、ワルサーP38を拾って抵抗を試みたさそりは、ハリーのマグナムで心臓を撃ち抜かれる。


これは”神判”だ。弾丸が残っているかどうかは神の意思にゆだねられ、その結果としてのさそりの死に、より正当性を持たせるための演出である。



復讐するは我にあり」という言葉がある。


これは、新約聖書の「ローマ人への手紙」第12章19節にある言葉で、悪を行ったものへの復讐は神のみが行うものである、として報復を禁ずるものだが、「復讐は自分の手でする」という正反対の意味に誤解している人も多い。


ここでは、本来の意味どおりに、ハリーが神の正義を得ているのである。



ダーティハリー』は痛快な映画だ。しかし、その痛快さは苦味を含んでいる。人権というのは甘いものではないからだ。



悪人に人権など認めたくない、という気持ちは誰にでもある。それこそ”人権派”の弁護士にだってあるはずだ。
他人の人権を踏みにじった人間の、その人権をなぜ守らなければいけないのか、という思いだって、ないはずがない。


しかし、人権というのは他人のそれと相殺できるものではない。何かの交換条件にしていいものでもないし、法律を守ることや、国民の義務を果たしたことのご褒美として、国から与えられるようなものでもない。


誰もが生れながらにして平等に持っており、何があろうとも失われることがあってはならない、というのが人権の本質だ。


悪人の権利を守ることは、人権という概念そのものを守ることに他ならないのだ。



ハリーは、刑事として、容疑者の人権も守らなければならない立場の人間だ。それを踏みにじるためには、人権よりも上位の概念である(と観客が信じている)、神の正義という後ろ盾が必要だったのだ。



だが、現実の世界にはハリーのような刑事はいないし、人間が神の正義を得ることもない。


”さそり”のモデルになった連続殺人犯ゾディアックだって、映画のように単純で純粋な悪だったかどうかわからない。

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ダーティハリー』は、そのカッコ良さの裏に危うさをはらんでいる。それは、善と悪について考えるときに陥りやすい、単純化への欲望が持つ危険さだ。


こーげこーげこーげよー、と歌うさそりを、誰もが憎たらしく思う。ハリーのマグナムに、誰もが正義を仮託する。


しかし、現実の世界にはその正義は存在しない。仮に存在したとしても、その正義が自分とともにあると考え、疑いもしないような人間は醜悪だ。

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ハリー・キャラハン刑事は、”正義を行う自分”を、神とともにあるキレイなものだとは考えていない。
だから”ダーティ”なのだ。