「『AV女優』のアクロイド殺し」

最近話題の社会学者(というよりエッセイストに近いような気はするが)、鈴木涼美の対談記事が上がっていて、これまた話題になっています。

売春島や歌舞伎町のように「見て見ぬふり」をされる現実に踏み込む、社会学者の開沼博。そして、『「AV女優」の社会学』の著者として話題を呼ぶ社会学者の鈴木涼美。『漂白される社会』の出版を記念して、ニュースからはこぼれ落ちる、「漂白」される社会の現状をひも解くシリーズ対談。
AV女優に対する偏見と、裸が猥褻物であるという事実が、AV女優という仕事の価値を高めていると鈴木は語る。100円の下着が8000円で売れた「女子高生」ブランドを失ったとき、鈴木は何を思ったのか。対談は全3回。

話の中身も鈴木氏の経歴も、草食系がウリのはてなー諸氏には刺激が強いようで、やや反発が目立つブクマ欄になっています。


とはいえ、鈴木氏の話していることは、話題の著書『「AV女優」の社会学』に書いてあることとほぼ同じなんですけどね。

「AV女優」の社会学

「AV女優」の社会学

実は遅ればせながら、昨日読んだところだったんです。オレはもともと、この人がやっていたAV女優「佐藤るり」(妙な言い回しだが、ニュアンスは伝わると思いたい)の大ファンで、転身を知ってからこの本に興味を持ったという、たぶん本人がいちばん嫌がるであろう読者だということは自覚しています。


鈴木氏は、自身にAV女優経験があることを伏せてこの本を書いたのですが、週刊誌に出演経験を報じられたとき、こう書いています。
「文春」に“AV女優歴”を暴かれた元日経記者・鈴木涼美が緊急寄稿!|LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見 「文春」に“AV女優歴”を暴かれた元日経記者・鈴木涼美が緊急寄稿!|LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見

問題は、著者である鈴木涼美は、「AV業界をうろうろしながら」と自らのAV出演の経験を留保して、本書を記していることである。確かに私はAV業界の友人や恩人らの協力を得てAV業界をうろうろし、本書を執筆するに十分な証言を得たが、一方で自分もAV女優としての経験を持っていた。AV出演の経験を持っていることは、AV業界の魅力や問題点を知るのに、圧倒的に有利だったのではないだろうか。その自分の優位性を1行目で告白しないことは、研究者倫理に照らし合わせてどうなのか、少なくとも書き手の姿勢としてどうなのか。読者への敬意に欠けるのではないだろうか。

『「AV女優」の社会学』の著者は、「偏見を鑑みて」などという言い訳の裏で、どこかで自分の著作を読む偉いオジサンたちを「巨乳で馬鹿っぽいAV女優が書いたって知ったらどんな顔するの?」と嘲笑するような気持ちは持っていなかったと言えるだろうか。であるとしたら、これは大いに議論・批判されてしかるべき問題である。「日経記者がAV女優」であることよりも「鈴木涼美がAV女優」であることのほうが余程大きな問題を孕んでいる、と私は思う。
鈴木涼美

当初の記事では、「日経記者はAV女優だった!」という見出しによってそちらの面を強調していましたが、鈴木氏本人にすれば、AV出演経験を明かさずに書いたことのほうが、本の書き手として誠実かどうかという大きな問題だということです。


著者自身が当事者となっている問題について書くとき、その立場をどこまで明確にするかというのは難しい問いで、鈴木氏も、隠していたことが正しい判断だったかどうかは確信していない、とのこと。


というわけで、読み手として「この本には叙述トリックがある」という前提のもとに、読んでみました。トリックを知ってから読むというのはミステリ読みとしてはどうかと思う行為ですけどね。


この本はもともと修士論文として書かれたもので、性の商品化とセックス・ワークをめぐる言論の総括(この辺はいかにも論文調)からはじまり、著者本人がAV業界で「参与観察」を行い、そのフィールドワークによって得た、「AV女優」たちがその意識と職業倫理を獲得していく姿を詳述していきます。
サブタイトルは「なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか」と題されていますが、ざっくり要約していうと、AV女優はプロダクション面接(事務所に所属するとき)、メーカー面接(制作メーカーと契約するとき)、監督面接(作品ごとに内容について打ち合わせるとき)と、何度も面接することで「自分はどういう女優なのか」「何ができて何ができないのか」「今まで何をしてきて、これから何をやりたいのか」を語ることを求められるため、それを繰り返す中で語りの技術が向上していき、いつしかそのキャラ設定が内面化されていく、とのことです。


こういった、もとAV関係者が出す本は少なくありませんが、たいていの本は「そげぶ」(その幻想をぶち殺す)感があるんですよね。「AVなんてウソだ!」的なね。

セクシー女優ちゃん ギリギリモザイク

セクシー女優ちゃん ギリギリモザイク

峰なゆかの新作『セクシー女優ちゃん』も、現場の赤裸々な実態を描くことで「業界のタブーを大暴露」という売り方をされています。読んでみると、AVの面白さをそこまで損なう描き方ではないんですけど。


しかし、『「AV女優」の社会学』では、女優のお仕事(裸になって撮影するのは業務のごく一部であり、さまざまな仕事をこなしていかなければならない)について詳細に語りつつ、誇張された自己語りについても、それが女優として獲得したパーソナリティであると肯定的に書いています。
フェミニズムの文脈では、性暴力の犠牲者と位置付けられがちなAV女優(フェミニズム界隈では「ポルノ」という名称のほうがよく使われるけど)の立ち位置についても、単純に「自由意思がある/ない」などの切り口で語られることをよしとしない、本人たちの実感に寄り添った考察がなされています。キャリア後半の女優がNGを解禁していく姿についても、単に仕事がなくなって仕方なくやっているのではなく、新たな領域にチャレンジすることにやりがいを持っているのだ、とのこと。


そして、AVファンの男性なら誰もが気になるであろう「女優は撮影のカラミで“感じて”いるのか」という疑問について(その疑問に答える、という形での叙述ではないが)、女優が仕事を継続するモチベーションのひとつになり得る、と肯定しているといえます。

 撮影内容それ自体でフェティシズムに触れる性的な冒険は、よくも悪くもAV女優の心身に刻まれる。当然、快楽や達成感として刻まれることもある。

<中略>
 私が撮影現場にいて素直に感じたのは、コンテンツとしての性質とは別次元で、現場には現場の感動があることだ。AV撮影の内容すべてを肯定的に見るわけではないが、ハードなSMプレイなど、過激な撮影の終了後はスタッフに言わせると「いい顔をしている」AV女優が多く見られる。
 それは身体的にきつい仕事への達成感であったり、初めて経験する性的行為の興味や快楽であったり様々であろう。

<中略>
 私は、そういった現場の感動がAV女優の仕事の継続やプロ意識の形成に持っている影響は、決して無視できるレベルになく、個々人の女優たちにとってはあるいは最重要な時もあると感じていた。

どうですか、このロマンに満ちた書きぶり。


でもこれってね、女優としての経験を持たない人物が書いたんだとしたら、ポルノ排斥を訴えるような人たちから「そんなわけない」と批判されてもおかしくないところじゃないですか。
ここだけ注目するなら、「自分も女優だった」と書いたほうが説得力は増したかもしれません。
ただ、それを書いちゃうと論文や社会学の本じゃなく、エロスを前面に出した読み物になっちゃうんですよね。もとAV女優が現場の感動について書く、なんていっちゃうと安手の官能小説みたいになっちゃって、性の商品化やセックスワークの現場について議論を深める資料のひとつには、なりえません。その意味では、著者が自分のことを書いていないのは、賢明な判断だったといえるでしょう。


鈴木涼美氏は、自分の立ち位置について「AV業界をうろうろしていた」とだけ表現していて、具体的に何をしていたかは書いていません。ただフィールドワークのために来た、なんていう人をAV撮影現場が暖かく迎えるとは思えないので、何らかの業務についていたことは想像できます。ただ、ここで女優以外の、たとえば「ヘアメイクをしていた」とか「マネージャーをしていた」と書いたら、ウソをついたことになってしまいます。
また、論文の冒頭では、プライバシーなどの都合上「公開できる情報に制限がある」と明言してあります。


これは、叙述トリックとしてはフェアだと思いますね。


ミステリにおいて、実は物語の語り手が犯人だったという作品はいくつかありますが、基本的な手法として「ウソは書かない」「ただし、書かれていない行動がある」という書かれ方をしています。「私がアクロイドを殺した」とは書いてなくても、「私はアクロイドを殺していない」とも書いていない、という叙述のやり方です。


鈴木涼美氏は、「私もAV女優だった」とは書いてないけど、「私はAV女優ではなかった」とも書いてないので、これはミステリの書き方としては、完全に正当なトリックですね。



えっ? この本はミステリでも小説でもない、って? そんなものはねえ、読み手が何か謎を解こうと思って読めば、なんでもミステリになるんだよ! 殺人があって探偵が出てくればそれがミステリだ、なんてそんな単純な読み方でいいのかねキミィ!



ボケはこのぐらいにして、本書には限界があることも書いておきましょう。本文中で著者も書いていますけどね。
これは、東京の都心で生まれ育ち、1999年に女子高生に、2002年に女子大生になった人物が、宮台真司が論じていたような性の文化に身を置き、そこで持った実感をもとにした本です。性の商品化というのは、ある程度は現代の日本で生きる女性にとって普遍的な問題かもしれませんが、著者は「この街の女性」の気分を土台にしてさまざまな分析を行っており、それはすべての人が共有できるものとは限らない、という前提は持っていてもいいでしょう。


もうひとつは、鈴木氏は自らAV業界に身を置き、そこで自分が見聞したことや、関わった人物から聞き取った情報をもとにして論じています。
そのことで生まれるリアリティはもちろんありますが、逆にいえば、自分が見聞きしていない事柄については書いていないということです。これは書き手として公正な態度ではありますが、本書中にはこのような記述もあります。

(家族や学校や職場に、AV出演を秘密にしていることについて)
 その事実を振りかざして、彼女たちを脅かす者が存在する。プロダクションやメーカーの人間の間では、どんなにAV女優の素行・勤務態度に問題が発覚しても、そういった脅迫は聞いたことがない。AV業界のタブーとなっている感覚すらある。しかし、そのルールを共有しない者、つまりファンや別れた恋人、心ない友人などは、彼女たちを脅かす存在になりうる。

(女優の引退について)
 基本的に、強引な引き止めや、ペナルティ発生が存在した、といった話は業界内では聞かれない。業務の性質上、AV女優に強制的に仕事をさせることは厳格に避けられているようだ。

また、冒頭で紹介した開沼博氏との対談でも、

 たとえば、「12本契約だから、途中で辞めるなんて許されない」と言われたとき、多少は怖いかもしれませんがそれを振り切れる子と、振り切れない子がいますよね。 契約を解除したらお金を取られる、暴力を振るわれると思う人もいるでしょう。ただ、構造的に一度入ってしまったら辞められない、それこそ吉原炎上のような構造には、いまはほとんどなっていない。業界のスタッフは理解があるし、もちろん、ビジネスとしてきちんと約束は守るといった基本的なことは求められますが、女の子側の事情がまったく無視されるような状況にはないと思います。

これは、鈴木氏の見聞した情報としては正しいのでしょうが、いっぽうでこのような証言もあります。


AVに出演していて、困った問題に直面された方へ | ポルノ被害と性暴力を考える会 AVに出演していて、困った問題に直面された方へ | ポルノ被害と性暴力を考える会

1度でも“契約”に応じてしまうと、「辞めたいときに辞められない」という問題がAVの撮影現場ではしばしば起きています。AVプロダクションでは「業界大手で安心・安全」「仕事は自由に選べる」「プライベート重視」「親バレ・身バレなし」を掲げていますが、実際には、撮影に一旦応じてしまうと、やりたくないと思っても、“契約”を盾に脅かされたり、怖い思いさせられたり、悔しい思いをさせられたりします。事あるごとに自宅に押しかけてきたり、「親や学校に言うよ」とか「多額の違約金が発生する」と言って断われないように仕向けることが普通に行われています。


制作被害 | ポルノ被害と性暴力を考える会 制作被害 | ポルノ被害と性暴力を考える会

 普通のヌードや絡みを中心としたものであっても、契約の過程で騙しや脅しがあったり、撮影現場で同意していない行為をさせられたりすることは頻繁に起こっています。

 たとえば、2007年に「AVオブ・ザ・イヤー」にも選出された穂花さんは、その自伝『籠』(主婦の友社、2010年)の中で、彼女のAVデビューがだましと違約金による恫喝であったことを告白しています。彼女は水着の撮影であるとの約束で、あるタレント事務所と契約を交わしたのに、その撮影現場に行ってみるとそれはヌード撮影でした。スタッフや著名なカメラマンも勢ぞろいした状況下で断れるはずもなく、意に反してヌード写真が撮られました。その次に来た仕事はアダルトビデオでした。彼女は引き受けたつもりはないといって拒否すると、違約金として600万円も請求されました。もちろんこれはまったくの不当請求ですが、20歳そこそこの若さと無知につけ込んで撮影は結局強行されました。

穂花 「籠(かご)」―BIOGRAPHY OF HONOKA

穂花 「籠(かご)」―BIOGRAPHY OF HONOKA

まぁ、この「ポルノ被害と性暴力を考える会」というのは、まさに鈴木氏が違和感を覚えているところの、AV女優をかわいそうな被害者として位置付けるフェミニスト団体の典型であるし、2008年にバクシーシ山下が青少年向けの本を出したときには「バクシーシは暴力ビデオの監督だ」と出版社に抗議したりして、この人たちはいつの話をしてるんだろうと思わされたもんですが、いちおうこういう話もあることはあります。この辺は、女優の自由意思に関する見解の相違もあるとは思いますが、鈴木氏はAV業界にあって比較的良心的なプロダクションと関わっていた(これは本文中でも明記されている)ことは留意しておくべきでしょう。


とはいっても、本書にこれらの限界があることは著者も本文中で書いていることですので、ちゃんと読めば大丈夫だと思いますけどね。



ちなみに、鈴木涼美氏は「業界の人間が親にばらすことはないが、別れた恋人は脅威となる」と書いていますが、週刊文春で報じられたところによれば、彼女は、日経新聞に入社して間もないころ、別れた彼氏がその腹いせのため、彼女の父親に出演作の動画ファイルを送りつけたことによってAV出演歴がバレたということなのでありました。AV女優は単純な被害者ではないにせよ、少なくとも、この人がリベンジポルノの被害者だということはたしかなようです。



あと、鈴木氏の経歴はその学歴や職歴ばかりが注目されていますが、ご両親とも翻訳家で父親は大学教授でもあり、しかも、父の鈴木晶氏は高橋たか子が生前に唯一とった弟子兼秘書で、鎌倉の高橋邸(夫の高橋和巳も一時期住んでいた)に妻子ともども同居していた(その後、正式に譲渡されて今は鈴木邸になっている)とのこと。


つまりこの人、子どものころ高橋たか子といっしょに暮していたってことですよね。

終りの日々

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そんじょそこらのサラブレッドじゃない、家庭環境も超エリートじゃないか! 毛並みの良さでいったら池澤春菜といい勝負だ!
乙女の読書道

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