リキさんの壷

年頭からこんなツイートを見かけて、びっくりしました。



会津地方で馬刺しを食べる習慣は、昭和30年代に力道山が持ち込んだものだった、とのこと。これは知らなかった。


調べてみると、地元で「会津馬刺し発祥の店」とされる鈴木庄治郎商店のサイトにも、その逸話が書かれていました。お店自体は大正時代の創業で、馬肉を食べる習慣自体はもっと古く江戸時代からあったようですが、刺身で、辛子味噌をつける食べ方の発祥について、こう紹介されています。
肉の庄治郎|馬刺し、馬肉、桜肉の専門店

力道山と肉の庄次郎商店



昭和30年といえば、プロレス界の力道山が人気ナンバーワンを誇る国民的ヒーローでした。外国人レスラーをバッタバッタとなぎ倒す痛快さで戦後の日本を大いに勇気づけてくれました。その力道山のプロレス興行が会津若松の鶴ケ城(西出丸)であった時のお話です。興行終了後、力道山が大勢のお弟子衆を引き連れ当時未だ砂利道だった道を裸足で歩いて当店に来たのです。当店に入るなり、吊るしていた馬肉を指して、「おやじさん、その馬肉を生でくれ」と言い、お弟子さん持参の壷に入ったタレを付けて、その場で食べ始めたそうです。
当時、馬肉を生で食べれる習慣はありませんでしたが、それをきっかけに馬肉を食べる習慣が当店から会津全体へ広がったのです。また、その時のタレにヒントを得て、作ったのが当店自慢の辛し味噌ダレです。

馬刺しを名物としている地方というと、福島県のほかには熊本県が有名ですが、熊本式ではしょう油とにんにくや生姜を合わせるのが一般的で、辛子味噌をつけるのは会津風に独特の食べ方です。今ではよく知られた名物になっていますが、意外と歴史が浅かったんですね。こういうものってわりと多いんですが(「初詣」は鉄道が開通した明治以降の文化だ、とか、中華料理店につきものの回転テーブルは昭和7年目黒雅叙園で考案された、とか)、よく知ってると思っていた人物が絡んでいたとなると、にわかに興奮が高まるのであります。


同じことを紹介しているほかのサイトを見ると、「昭和30年代のある年」と書いているサイトもあり、正確な年度は特定できませんが(日本プロレスの全興行記録を見れば特定できるかもしれないが、さすがのワスもそこまでの資料は持ってない)、仮に昭和30年のできごとだとすると、「お弟子さん」というのが誰なのか気になるところです。


今でこそ「力道山北朝鮮出身」というのは誰もが知ってる常識ですが、当時はひた隠しにされていました。業界では公然の秘密だったともいわれていますが、少なくとも、対外的には「力道山長崎県出身の日本人」ということになっており、朝鮮を思わせる要素は慎重に遠ざけられていたといいます。力道山の豪邸には誰も入れない秘密の部屋があり、そこには朝鮮の民芸品や民謡のレコードが収められていた、なんて伝説もあるぐらいです(なお、この説は事情を知る複数の人物により否定されている)。

もう一人の力道山 (小学館文庫)

もう一人の力道山 (小学館文庫)


そんな時代に、朝鮮風の辛子味噌を人前で堂々と食べていた、というエピソードがあったとは、意外きわまる事態であります。力道山の食生活というと血のしたたるビーフ・ステーキなどアメリカナイズされた印象がありますし。そんな時期に、辛子味噌の壷を持ち歩く任務を言いつかる弟子というと、かなり信頼の厚い人だったことでしょう。付き人として有名なアントニオ猪木や、同じ朝鮮民族として目をかけていた大木金太郎は、昭和30年にはまだ入門していなかった(大木は昭和34年、猪木は昭和35年入門)し、ルーズな性格の豊登道春にそんなデリケートな仕事をさせるとも思えない。個人的には、ちゃんこ名人で有名だった田中米太郎が本命かな、と思うところであります。


なお、力道山は人前でガラス製のコップをバリバリ食べてみせるなど悪食エピソードが伝わっており、また、プロレスラーには「生肉をむしゃむしゃ食べる」(オックス・ベーカー)や「生の玉ねぎをバリバリ食べる」(バロン・ガトニ)などサーカス由来の野人パフォーマンスをする者も少なくなかったため、力道山が人前で生の馬肉を食べてみせたのも、パフォーマンスの一環だったのかもしれないという意見は表明しておきたいところであります。結果として美味しかっただけかもしれない。