進軍ラッパ聞くたびに

安倍晋三首相ひきいる自民党は、「教育再生」を掲げて親学や道徳教育を推進していますが、このほど道徳の教科化方針が打ち出されました。


http://www.47news.jp/CN/201302/CN2013021501001850.html

いじめ対策で道徳の教科化提言へ 教育再生実行会議

 政府は15日、教育改革の司令塔となる「教育再生実行会議」の第2回会合を官邸で開き、いじめ対策として、規範意識を醸成するため、小中学校の道徳の教科化を提言することで一致。

 会合後に記者会見した鎌田薫座長(早稲田大総長)は「教科にすべきだという意見が大勢を占めた。それを踏まえて取りまとめる」と述べた。自民党衆院選の公約に道徳教育の推進を掲げており、“安倍カラー”が強く打ち出された形だ。

 小中の道徳は原則週1時間の必修だが、正式な教科ではなく、第1次安倍政権の「教育再生会議」も教科化を提言した。しかし、実現が難しいとの意見が相次ぎ、見送られた経緯がある。

さて、安倍自民党が血道をあげている道徳の教科化ですが、「日本をトリモロス」がスローガンのアベシンだけに、その本質が戦前・戦中の「修身教育」の復活であることは周知のとおりです。
http://mainichi.jp/feature/news/20130212dde012100009000c.html


規範意識」の醸成というのも、要は国家など「公」への忠誠心を高めることにほかなりません。7月の参院選自民党が制したら、本格的に憲法改正に乗り出して国民の「規範意識」に踏み込んでくることが予想されるところです。


道徳の教科書に、木口小平が復帰する日もそう遠くはないでしょう。

新装版 海軍乙事件 (文春文庫)

新装版 海軍乙事件 (文春文庫)


修身の教科書で長きにわたって親しまれていた、「シンデモラッパをクチカラハナシマセンデシタ」で知られる木口小平。修身には「忠義」という項目があり、戦死した兵士の美談がここで子どもたちに教えられたのです。「つくる会」の歴史教科書でも、木口小平の戦死を「武勲とは縁のなかった平民に新しい時代が訪れた」と肯定的にとらえています。


明治維新以来、日本がはじめて経験した大規模な対外戦争が、1894年に開戦した日清戦争です。近代以前は武士階級が占有していた戦闘行為に、はじめて庶民が投入された戦いでした。百姓・町人が本当に戦意を保てるのか、不安視した政府は、下級兵士の戦争美談を必要としました。そこで喧伝されたのが、「死んでもラッパを放さなかった」忠義の兵士です。
日清戦争において最初の大規模陸戦となった成歓の戦いで、日本軍は初の戦死者を出します。この戦いは悲劇としてセンセーショナルに報道され、士官クラスでは初の死者である松崎中尉が「鬼神のごとき奮戦」と評され、また、進軍ラッパを吹いていたラッパ手が「敵の弾に撃たれたものの、息も絶え絶えにラッパを吹き続け、死んでもラッパを放さなかった」というエピソードが伝えられます。


当時の日本軍は、士官以外の下級兵士について詳細な情報を把握していなかったので、報道機関から「勇敢なラッパ手は誰か」と問われてもわかりませんでした。しかし、身元不明では記事になりません。そこで陸軍は、この戦闘に参加した岡山連隊の戦死者のうち、ラッパ手として有名だった白神源次郎の名を挙げました。岡山県出身の白神源次郎は、陸軍歩兵第21連隊に入隊してラッパ手となり、その力強いラッパで名手と謳われた人物です。日清戦争の前に満期除隊しますが、開戦すると予備役として召集され、一等兵卒として参戦しますが成歓の戦いにて戦死を遂げました。陸軍は、死んでもラッパを放さなかった勇敢なラッパ手は白神源次郎なり、と発表し、彼の名は瞬く間に日本全国で讃えられることとなります。当時はまだ国定ではなかった学校教科書でも、英雄白神源次郎の名が子どもたちに教えられました。


しかし、その一年後になって戦闘の詳細が明らかになると、事実誤認が暴露されます。


白神源次郎は一等卒であり、戦闘時にはラッパ手ではなかったこと。


白神源次郎は水壕にはまって溺死したのであり、撃たれたのではなかったこと。
戦いの火ぶたを切った佳龍里の戦闘では、清軍の待ち伏せを受けた日本軍がこれを撃退したものの、戦場は雨でぬかるみ、しかも夜間で視界が利かなかったため、白神を含む23名が水壕に落ちて溺死したのでした。



そもそもこの戦闘では、日本軍の死者35に対して敵の死者は21。このまま発表したのでは最初の戦闘で敗北を喫したことになるため、白神を含む23名の水死者は「戦死者」にはカウントせず、戦闘外での死亡という扱いになったのです。
当初この事実は隠されましたが、結局公表されることになります。このため、白神源次郎は「英雄」の座から追われる羽目になりました。


白神源次郎に代わり、英雄として祭り上げられたのが、ラッパ手の木口小平です。


白神と同じ岡山県出身の木口小平は、同じ第21連隊でラッパ手を務めていましたが、この戦闘で被弾し死亡します。陸軍は戦闘詳報に木口の名を見つけ、「忠烈のラッパ手は木口小平なり」と訂正発表しました。当初は、すでに浸透していた白神源次郎の人気が高かったためなかなか国民の認識が改まりませんでしたが、1903年に教科書が国定化され、修身の教科書で木口小平の名が子どもたちに教え込まれたため、徐々にそちらが忠烈の代名詞として国民に浸透していくことになりました。

ちなみに、木口小平の遺体検案書によれば、彼は心臓を撃ち抜かれて即死しており、ラッパを持ったままだったことは精神力と何の関係もありません。


また、日清戦争の当時は戦死者の特進制度がなく、白神源次郎も木口小平も、死後に階級を特進させることもなく、勲章を授与されることもありませんでした。いっぽう、彼らを統率する第5師団の野津道貫師団長は、戦功によって伯爵を綬爵(日露戦争後には侯爵まで昇格)し、元帥の称号まで贈られています。一平卒は黙って死に、その美談を糧にして将校が出世する。いやぁ、これぞ「美しい国」の姿ってモンですなぁ。