1954年の木村政彦

1985年のクラッシュ・ギャルズ

1985年のクラッシュ・ギャルズ

『1985年のクラッシュ・ギャルズ』本書中において印象的だったのが、やられ役の長与千種が試合をコントロールし、美味しいところをぜんぶ持っていったしまった、というところ。華奢で弱い千種が極悪同盟に血だるまにされ、苦痛に顔をゆがめ、耐えに耐えてライオネス飛鳥にタッチする。そこで飛鳥が出ていって敵を蹴散らす。当時のクラッシュvs極悪ではそういう図式ができあがっていたのですが、飛鳥は最後に怪獣を倒すウルトラマンの役割であり、人間のドラマからは排除された存在である、と柳澤健は評しておりました。観客の大半を占めるティーンズ女子が感情移入するのはあくまで千種の表現する苦痛のパッションであり、そこに「自分たちは虐げられている」という思春期特有の鬱屈を抱えた少女たちが熱狂したのだ、と。


うなづける内容ですが、ならばその30年前には、木村政彦は観客から感情移入される存在になぜなれなかったのでしょうか。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

ゴング格闘技』に4年にわたって連載された、増田俊也の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』がもうすぐ単行本になりますが、二人の因縁の発端は、日本最初の本格的プロレス興行である1954年2月のシャープ兄弟vs力道山木村政彦組の試合で、木村先生(オレの先生の先生なので、敬称づけである)がやられ役に徹し、力道山がヒーローとしてシャープ兄弟を空手チョップで蹴散らすという図式に不満を覚えた先生が、力道山に「真剣勝負ならば負けぬ」と挑戦状を叩きつけたことに始まります。


この「巌流島の決闘」で力道山は事前の約束を破って木村先生をKOするわけですが、それはさておき、のちの長与理論に従うならば、試合をリードするのはやられ役の木村先生のはずです。


敗戦からわずか9年、アメリカに強いコンプレックスを持っていた当時の日本人にとって、大きなシャープ兄弟が小柄な木村先生を痛めつける光景はショッキングであり、木村先生に大きな同情と共感が集まっていたとしてもおかしくありません。人間のドラマを作るのは木村先生であり、力道山は空虚なヒーローになっていたとしてもおかしくないはずです。


しかし、現実のプロレスではそうはならず、力道山は国民的スターになるものの、木村先生は地元のローカルヒーローにとどまり、間もなくプロレス界からフェイドアウトします。


木村先生はあくまで柔道家、アスリートであってパフォーマーではなく、苦痛のパッションを表現することに生き甲斐を感じることができなかったのが、先生の不幸だったのでしょう。


長与千種は「試合に負けるのは快感だ」とまで言っていました。負けることで会場の注目と同情をすべて集めることができるから、というのですが、「負けたら腹を切る」と柔道の試合前夜には実際に短刀で切腹の練習をしていたという木村先生に、そんな発想ができるはずもありません。それに対し、力道山ルー・テーズにちゃんと破れ、それでも観客を満足させることができました。力道山はスターになったのに、木村先生がスターになれなかったのは、当然のことだったのです。