小僧の神様
朝の駐車場は、足首まで埋もれるほどの雪が積もっていた。長靴は持っていない。ローファーのすそから雪が入り込み、靴下にしみこんでいく。
車には、屋根といわずフロントグラスといわず側部の窓といわず、30センチばかりの雪が乗っかって、真っ白に覆い尽くしている。こいつを取り除くだけでも一苦労だ。そう考えるだけで手を動かす気がしなくなる。
車には、除雪用のブラシを積んでいない。滅多に使うことがないので、面倒くさくて買わなかったのだ。仕方なく、素手で雪をつかんでは落としていく。その間にも雪は降ってくる。ニットの帽子についた雪が溶けて、濡れていくのを頭に感じる。
ようやく窓の雪が取れた。車に乗り込む。エンジンはとっくにかけてあるので、車内は暖かい。冷えた足と、かじかんでしびれた手を、エアコンの温風で温めた。ようやく出勤の途につくことができそうだ。
ギアをDに入れて、車を前進させる。5メートルもいかないうちに、FF車の前輪が空回りして車が動かなくなった。あわてて、ギアをバックに入れてアクセルを踏む。タイヤは空転を繰り返すだけだ。スタックだ。駐車場の出口に差し掛かったところで立ち往生してしまった。
スタックした車はどうにも動かない。道ゆく人たちがこちらを胡散臭そうな目で見ていく。心の奥底から、『狂い咲きサンダーロード』のオープニングのような重低音ノイズが聞こえてくるのがわかる。ゴゴゴゴゴ。
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時間はすでに、駐車場についてから30分ちかく経っている。普段より早く家を出たアドバンテージが、はや消滅した。カーラジオからは、市内の道路があちこちで渋滞していることを告げられている。今日は遅刻だ、この時点で覚悟を決めた。
家人を電話で呼ぼうかと思い始めたところ、通りがかった子どもがなにやらこちらに合図を送っている。10歳ぐらいの少年だ。丸々とした頬が赤く、五分刈りの頭が素朴な印象を与える。黒いランドセルを背負っているところを見ると、これから登校するのであろう。こちらに懸命に身振り手振りで何かを伝えようとしている。窓を開けて声を聞いてみた。
「押しましょうか」
30を過ぎたいい大人が、ランドセルを背負った子どもに心配されているのだ。いささか情けない風情がなくもなかったが、この際そんなことは言っていられない。「ありがとう、頼むよ」と言うや、彼はすぐに車のリアバンパーに手をかけて押し始めた。こちらも、ギアをDに入れてアクセルを踏む。車はゆっくりと前に押し出されていった。雪の固まりを乗り越えて、駐車場の出口から道路へと、すべりながら移動していく。
車は完全に道路へ出て、シャーベット状に踏み荒らされた路面をタイヤがとらえた。少年はまだ後ろで心配そうに見ている。サイドミラーには彼の姿が映っていた。
サイドブレーキをかけ、ハザードランプを点灯させた車を降りて、少年のもとへ歩いた。「どうもありがとう。助かったよ」礼を言うと、彼は満面の笑顔を浮かべて答えた。
「よかったです」
彼に「ちょっと待ってね」と背を向け、ポケットから財布を取り出す。千円札を一枚、抜き出して折りたたむと、少年のジャンパーのポケットに差し込んだ。「とっといてくれ、本当にありがとう」
坊主頭の少年は「あ…」と戸惑っていた。そんな彼をその場に残し、車に戻ると、職場へ向かって車を始動させた。
どうせ遅刻するのはわかっていたが、とにかく会社に行かなければ話にならない。道路は雪が踏み固められ、おまけにチェーンをはいたトラックが削っていたため、車を走らせるとガタガタと振動する。アウトドア向きの車ではないので、乗り心地はすこぶる悪い。おまけに、渋滞を避けようと乗った高速道路は途中で通行止めになり、全部の車が次のインターで下りなければならないので、かえってひどい渋滞につかまった。いつもは5分もかからない5キロほどの道に、今朝は1時間以上はかかる。
その間に思っていたのは、あの少年のことだ。
彼は、困っている人がいるから助けようとしただけだろう。それで金がもらえるなどとは思ってもいなかったにちがいない。その彼に、千円札一枚とはいえ金を渡したのは、その純粋な好意をこちらで値踏みするようなことだったのではないだろうか。
お金を持って登校したら、教師に咎められはしないか。
知らない人から金をもらったと知れたら、親に叱られはしないだろうか。
ただで別れるわけにはいかないと思って金を渡したが、かえって彼の心に重荷を負わせたことにはならないのか。
そんなことをぐるぐると考えながら、1時間遅れで会社についた。
仕事の間も、彼のことが頭から離れることはなかった。
あの少年には、「人から感謝される」ことのうれしさを、感じてほしかった。「お金もらってラッキー」と思ってもらってもかまわない。「たった千円かよ、ケチなおっさんだな」と思ったっていい。
どうか、人から金を渡されたことを、変に屈折してとらえないでほしい。
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そこまで考えたところで、仕事を終えて帰途についた。
途中で、そういえば阿部和重の『ミステリアス・セッティング』が文庫で出てたなぁと思い出し、書店に寄る。
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たしか、昨日の夜には2万3千円あったはずだ。朝に、あの少年に千円あげたのだから、あと2万2千円あるはずだ。
ところが、どう見ても財布の中には1万3千円しか入っていない。
あの男の子に、間違えて一万円札を渡してしまったのである。
おい少年、世の中はそんなに甘くないぞ! この程度の親切で1万円も稼げるとは思わないでくれ! というか、今からでもいいから返してくださいお願いします。「息子が知らない人から1万円もらったと言っていて不気味です」というお母さん、もしいらしたら名乗り出てください! それはオレです!